peaの植物図鑑

草や木の花や木の実(果実)、特に山野草が好きで、デジカメを持ち歩いて撮っています。2024年3月、85歳になります。

雪の世界遺産・平泉毛越寺案内(その4) 金堂円隆寺 2014(平成26)年1月3日(金)

2014年01月11日 | 植物図鑑

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2014(平成26)年1月3日(金)、埼玉県に居住している娘が、大学生になった娘(孫娘)を連れて帰郷したので、この日マイカーを運転して2011年6月に「世界遺産」に登録された「平泉」を案内しました。雪化粧した平泉を観るのは、6~7年も前に東山町の「若水送り」に妻と参加して以来のこと。「月見坂」では滑って転びそうになりましたが、雪を被った木々がとてもきれいで感動しました。こんなことでもないとわざわざ真冬に出かけることもないので、行って良かったと思いました。

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(上と下5つ)「順路」に従って、嘉祥寺(かしょうじ)跡から講堂(こうどう)跡に進みます。ここも礎石しか残っていないので、参拝/見学者のほとんどが足早に通り過ぎるように見えました。

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講堂(こうどう)跡:仏法を説き仏法を聞く堂舎。内陣の仏壇の下部は厚い粘土層で造られている。

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(上と下)金堂円隆寺(こんどう・えんりゅうじ)跡が見えてきました。この基壇にも礎石しか残っていないのですが、他の基壇に比べるとかなり大きな表示塔が立てられていました。説明の文章も見えるためか、近くに寄って行く人がかなりいました。

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金堂円隆寺(こんどう・えんりゅうじ)跡:基衡が万宝を尽して建立した勅願時で、本尊は雲慶作の丈六の薬師如来であった。毛越寺の中心的伽藍で、東西に廊が出て南に折れ、その先端には鐘楼、経(鼓)楼があった。基壇は石造り壇上積である。

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(上)木々の間から見える前方の木々の所に「経楼(きょうろう)」があったようです。下の「毛越寺遺跡図」にある通り「南大門」から「大泉ケ池」を挟んだ向かい側に「金堂(円隆寺)」があり、左側の張り出しには「経(鼓)楼」、右側の張り出しには「鍾楼」があったようです。

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二代基衡と毛越寺:(前略)二代基衡が造営したのが毛越寺である。毛越寺は、堂塔40余宇、禅房(僧坊)500余りと、その規模概数を伝える。中心となる金堂を円隆寺といい、丈六の薬師如来を御本尊に、十二神将が左右に安置された。堂内の荘厳は万宝を尽くし、伽藍は講堂・常行堂・二階惣門(南大門)・鐘楼・経蔵と、池に臨んで甍を連ねた。これに、九条関白忠通の染筆になる額をも掲げた。本尊丈六の薬師如来像は、仏師雲慶(運慶とは別人)に彫像を依頼した。これを実現するために、3カ年の間陸路・海路から莫大な物資珍宝を仕送りしている。遂にはその評判が鳥羽法皇の叡聞にも達したが、法皇は、余りの見事な出来栄えに、この仏像を洛外に出すべからず、ということになった。基衡は手の限りを尽くし、人を動かして遂に搬入することを許された。

金堂と並んで嘉祥寺(昔は「嘉勝寺」と書いた)も建立されたが、竣工を俟たないで基衡命終し、次の秀衡になって作事落成した。その壁や扉には、法華経の大意が彩色絵図されていた、と伝えられる。いずれも『吾妻鏡』(文治5年9月17日の条)に収められた平泉衆徒(僧侶衆)の注進状(書き上げ)の記述から知られるところである。

ところが、嘉禄2年(1226)に円隆寺は焼失した。このとき、嘉祥寺も焼けたものらしい。『吾妻鏡』(脱漏)にも、これを惜しんで「平泉の円隆寺(毛越寺と号す)が焼亡した。ときに、鎌倉中にこの火災のあることを告げてまわる者がいて不思議であったが、後で聞くと、丁度その時刻に火災があったということだ。彼の寺は、その荘厳において吾が朝無双といわれる。かつて頼朝が奥州を討征した際にも、円隆寺に参拝されたが、それ以来は殊に信仰なされたところであった」といった風に記録している。その上、残りの堂宇も元亀4年(天正元年・1573)に焼失したと伝えられる。

今日そこに、善美を尽くした当時の堂塔は一宇も存さない。何もない、ということは金色堂のような国宝建造物や重文指定の仏像といった、有形文化財は見ることが出来ないということであるが、境内に入って南大門(なんだいもん)跡に立つと、東西200メートル、南北約100メートルの大泉ケ池が展開する。正面に中島が浮かび、その対岸延長上に金堂円隆寺の基壇、礎石が秋雨に濡れる。昭和30年~323年に実施された遺跡発掘調査の結果は、金堂に東西両廊が付属し、これがそれぞれ鐘楼、鼓(経)楼に接続する形で、左右対称形にひとつの包まれた空間をつくっていたことがわかる。その、池に臨んだ堂々たる伽藍形式は、類例を京都の白河天皇の御願寺(きょかんじ)「法勝寺」の遺構に求められるけれども、これほど平安時代の庭園の特質を最も純粋なまま具体的に示しているところはないのである。寺域は国の「特別史跡」に指定され、しかも庭園美観は「特別名勝」と、まさに「国宝」に相当する二重の指定を受けている。(以下省略)

(上3つ)川嶋印刷株式会社 昭和55年3月25日発行「藤島亥治郎・監修 平泉~中尊寺・毛越寺の全容」(編集人:内海隆一郎)より

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(上2つ)大泉ケ池側から見て右側の廊にあった鐘楼(しょうろう)跡:金堂東廊の南端に連なる建物で、雨落溝が土壇をめぐり、その水は池に注ぐように造られている。

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(上)大泉ケ池を挟んで見える常行堂(じょうぎょうどう)(下)次は常行堂(じょうぎょうどう)の参拝/見学です。

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