BSの「アカデミー賞」授賞式を見たが、本場のもの
は華やかだ、とどうしても日本のものと比較して思っ
てしまう。
日本のアカデミー賞は、本家を真似してるのだろうが、
田舎にある、例えば、パルコにしたいのだろう商業ビ
ルの、しかしパルコにはなれない垢抜けなさ、田舎っ
ぽさと同じものを感じる。
要するに、田舎臭いのだ。
はっきり言って止めた方が良いと思う。
華やかさの主役が違うのだから。
と言っても、本家のアカデミー賞がすばらしいと思っ
ているわけでもない。
「虚飾の世界」という言葉がどうしても浮かんでしま
うのだ。
今回見たのは、最後の30分ほどだったが、スターだ
らけで、そういうのが好きな人にとっては夢のような
世界であることは良く分かる。
凄い世界だ、ともいえるし、そうでないともいえる。
個人的には、現実に、もし隣にハリウッドスターがい
たら、ドキッとするだろうが、憧れで見ていなければ、
ドキッとはするが、後は誰かに話す良い材料が出来た
と喜ぶくらいなものかとも思う(エヴァ.グリーンだっ
たらドキドキドキとドキの三乗はいくと思うが)。
スターというものも、そういう憧れの視線があって初
めて成立するものだから、その視線が無ければ、唯の
美形の人間(そうでない人も多いが)かもしれない。
独特のオーラがあるから、それだけではないはずだ、
という理屈も成立つが、そもそもこのオーラというの
は、客観的に検証できるものでもなくそれぞれが感じ
るものだから、共通理解の事実とはなりえない。
はっきりしているのは、憧れで見る人は相当感じるら
しいということだ。
それと、スター本人の身振りというのも関係している。
見られているという意識は、伝播するものだ。
一般人だと、単なる自意識過剰だが、見られている(見
てもらいたい)意識と、見て気付いてああという意識
が幸せな出会いをしたとき、スターの空間が誕生する
わけだ。
そういうものがまるっきり成立たないであろう、例え
ば、アフリカのどこかで人気スターがいることを考え
れば、そのオーラの正体も見えるのではないか。
多分、何も起こらないはずだ。
つまり、オーラというものは、結局は文化によって規
定されるものなのだろう。