ピカビア通信

アート、食べ物、音楽、映画、写真などについての雑記。

失せ物

2008年03月12日 | Weblog


相変わらず、「デジカメ」は行方不明のまま。
どう考えてもなくなるはずが無いのだが。
にも拘らず見つからないというこの事実、一体どう受け
止めれば良いのか。
気分の悪いところに追い討ちをかけるように、めがね
が見つからない。
いくつかある一つなのだが、これも確かここに置いた
はずだがという場所に無い。
全く、どうなっているんだ。
ひょっとして、認知症か。
若年性というのもあるし、油断はならない。
今は何が起こるか分からない世の中である(いつの世の
中もそうであるが)。

それにしても、「デジカメ」がないと、アウトドアの楽し
みが減ってしまう。
この場合のアウトドアは、単純に家の外という意味。
殆ど散歩と同義語だ。
ということは、今まで散歩が、いかに「デジカメ」に依
存していたか。
そもそも、散歩の楽しみというのは、そういうものでは
ないはずだ。
何かをコレクションするためにするわけではない。
いろんなものを見ながら、感じながら楽しむのが散歩で
あるはずだ。
それが、記録のために調査、或いは観察、ある具体的な
目的のためということになってしまっているのが現状だ。
本来、もっと自由であるべきだ。
何の目的もなく、唯逍遥し、思索の自立運動に任せる、
こうあるべきなのだ。
道具に頼ってはならない。
ここは、原点に返るべきなのだ。
散歩道の誕生である。

と言いたいところだが、明治の文人でもあるまいし、
今は今の楽しみ方がある。
出来れば、道具に頼らずが良いのだが、道具があるこ
とによって新たな楽しみが生まれるのも事実なのだ。
我が散歩推進委員会(今結成)としては、「デジカメ」
を必須アイテムと認定したい。
これだけ適した道具が嘗てあったろうか。
フィルム時代は、手軽さという点で劣っていて、記念
撮影でかしこまって撮る、つまり記録として残すとい
う意味合いが強く、それがある重さにつながった。
一眼カメラとなると、完全にアマチュア写真家という、
これまた重いレッテルを貼られた(機材も重いし)。
いろんな意味の重さから開放してくれたのが「デジカメ」
なのである。
この軽さが、散歩の軽快さを更に押し進めてくれる。
散歩界のジャンヌ.ダルク。

問題は、デジカメ礼賛をいくらしたところで、失せた
「デジカメ」が見つかるわけではないと言うことだ。

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