ピカビア通信

アート、食べ物、音楽、映画、写真などについての雑記。

カフカ「城」

2008年03月15日 | 芸術


スノッブではないもう一人のMが、久しぶりに顔を見
せた。
となると、話は当然カフカの「城」である。
というのも、前回、彼が村上春樹の「海辺ののカフカ」
を読んでいて、それなら本家のカフカを読んでみない
と、ということになったのだ。
そして「城」を薦めたのだった。
その時、村上春樹とは全然違うから、ひょっとしたらと
いうか多分読み通すことは出来ないよ、と展開を予測
して言った。
本人は、意地でも読むと威勢良く答えたのだが。
それから、一ヶ月以上は経っている。

「で、どうなってる、カフカは」(私)
「ちゃんと、あの後直ぐに買いました」(m、M氏と
区別するためにこれからは小文字のmにする)
「買ったのは良いけど、読んだの?」(私)
「三分の一くらいは読みました」(m)
「三分の一?結構経ってるのに」(私)
「まだ、読んでる途中です」(m)
「要するに、進まないんでしょ」(私)
「まあ、そうなんですけど」(m)
「つまり、面白いとは思えないんでしょ」(私)
「まあ、そうなんですけど」(m)
「面白いと思えないんだったら、読んでも意味無いよ」
(私)
「だって、話が展開しないもんだから、次にどうなる
んだろうというワクワク感が持てないんですよ」(m)
「だから、そういう話の展開で読ませる、所謂一般的
な小説とは対極のものって最初に言ったでしょ」(私)
「そうなんですけど、あまりに村上春樹とは違って」
(m)
「村上春樹とカフカの共通点って、あるとは思えない
けど、タイトルに使ったくらいだから本人は好きなの
かね」(私)
「そうらしいですよ、しかし、全然違っていました」(m)
「登場人物も殆どいないし、同じようなところをぐる
ぐる回ってるだけでしかもゴールも無い、って感じで
しょ」(私)
「あれって、本人の職業が関係あるんですか」(m)
「役人ってことが?」(私)
「そうです」(m)
「確かに、意味が無いところに意味があるかのような
体系を作り、勝手に増殖していく官僚機構を表わして
いると見えないことも無い」(私)
「そうですよね」(m)
「しかし、そういう何か一つの主題に収斂するような
小説ではないところにカフカの良さがあるわけだから、
変に解釈するのは面白さを半減させるね」(私)
「そういうもんですか」(m)
「と、個人的には思うということで、それぞれが好き
なように読めば良いわけだし、面白いと思えないんだ
ったら読むな、ということ」(私)
「でも、電車の中でカヴァーをつけずにカフカの<城>
なんて読んでいたら、ちょっと格好良いですよね」(m)
「<海辺のカフカ>よりは断然格好良いと思うけど、
一般的にはどうなんだろう、それに、電車の中じゃあ
なかなかカフカの世界に集中できないよ」(私)
「良いんですよ、そういう状況じゃないと読むモチベー
ションが上がらないんですから、私の場合」(m)
「見栄がないと読めないと、それって読んでるんじゃ
なくて眺めてるってことだろう」(私)
「それでも、良いんです」(m)

まあ、先は長そうだ。
コメント

チュウヒ2

2008年03月14日 | 生き物 自然


「チュウヒ」目撃話を、いやに詳しく聞きたがるスノッ
ブなM氏に何故かと聞くと、全くそういうものに興味
が無さそうに思っていたのだが、どうもそうでもない
らしいのだ。

最初は、猛禽類がいたとしか話さなかったところ、「何
だったの」と聞くので、「チュウヒ」(自信ありげに)
と答えたのだった。
当然、「チュウヒ?」と聞き返した。
「サシバ」とかは知ってる?と聞き、そういういろいろ
いる猛禽類の一種だと答えた。
この場では、こちらがそういうもののスペシャリスト
という立場だ。
本当は、図鑑で見てやっとそうかなと思っている程度
なのだが、M氏相手ならば、知ったかぶりが通用する。
飛び方がどうのと(これも図鑑からの知識)いかにも
前から知ってるかのように解説すれば、「ほう」と感
心する。

それで調子に乗って、「<鳶>以外の猛禽類なんて見
たことないでしょ」と言ったところ、「<オオワシ>しか
見たことないよ」と答えた。
すかさず、「<鳶>じゃないの?」と聞き返す。
「あんな大きいの、見間違えること無いよ、それに双
眼鏡て確認したもの足の白い部分を」ときっぱり言っ
た。
どうやら、本当らしい。
しかも、こちらがまだ見たこともない「オオワシ」を。
羨まし過ぎる。
それにしても、双眼鏡まで持ってるのか。
本当に好きだったのね。

今度はこちらが根掘り葉掘り聞く番だ。
「オオワシ」は、それ程高い位置ではなく旋回してい
て、烏などを攻撃していたらしい。
情報では、かなり高い位置を旋回するのでなかなか確
認できないということであったが、そんなことは無かっ
たようだ。
相当目の悪いM氏が普通に確認できたのだから。
運の良い奴め。

「鳶」(完全に差別だが)以外の猛禽類に対しては、
畏怖のような憧れの感情がある。
だから、一度目撃すると、それだけで何か得したよ
うな気分になるのだ。
それが、日本で一番大きな「オオワシ」、しかもオホー
ツク以外では滅多に見られない貴重なものを、いくら
好きだとは言っても、わざわざ行ってまではしないM氏
が目撃するとは。
世の中は不条理である。
コメント

チュウヒ

2008年03月13日 | 生き物 自然


初めて、間近で白鳥を見た。
飛来地の「上川」という川の袂に、多分、全国どこで
も見られるであろう「餌付け」の場がご多分に漏れず
やはりあり、そこに行ってみたのだ。
本当は、餌付けというのはあまり好きではない。
自然のものはなるべくありのままの状態で見たいのだ。
だから、今や餌付が当たり前の白鳥は、自ずから興味
の対象から除外されていた。
それなのに何故か。
実は、白鳥を見にいったわけではないのだ。

上川というところは、土手が通勤用の自動車道路になっ
て、しかも一方通行なので、川の風景などを見ながら走
るのには絶好のところなのだ、と言いたいところだが、
道幅が狭く、脇見をすると、土手から落ちそうになる
くらい危ないところ。
実際、一度危うく落ちそうになったことがある。
その時ぶつけたサイドミラーは、あいかわらずガムテー
プで辛うじてくっ付いてる状態だ。

そんな安全な道ではなのだが、葦原とか中々良い自然が
残っているので、野鳥も色々見られついつい余所見を
してしまうのだ
特に猛禽類、たまに鳶以外のものが見られるのだ。
だから、ここを通る時は、ついつい上空を見上げると
いう危険を冒す。
昨日も、いつものように上空を見上げていたら、鳶が
これもいつものように飛んでいた。
そこにもう一羽、鳶より小さめの猛禽類が絡んできた。
見た感じ、鳶より翼が整っている。
しかし、如何せん、車を運転しながらの観察だ。
危ない危ない。
前を確認し、素早く視線を上空にの繰り返しだ。

そして、次に見たとき確信した。
飛び方が、明らかに鳶とは違っていたのだ。
隼のような、翼をすぼめたような形をとった。
これはじっくり観察せねば、と急遽Uターンしてその現
場に向かった。
つまり、そこが、白鳥の餌付けの周辺だったということ
なのだ。
しかも、車が止められるのはその辺りしかない。
しかし、残念ながら現場に着いた時には、すでにその猛
禽類の姿はかった。
危険を冒したのに、というのはこちらの勝手な事情だっ
た。
見たくもない鳶一羽が、いつものように上空を旋回して
いる。
出てきた言葉は、残念。

そこで、こんな機会でもなければ白鳥を見ることもない
と思い、じっくり観察することにしたのだった。
「白鳥を守る会」(多分そんな)のおじさんの「白鳥が
来てくれたお陰で、生きがいが出来たよ」などと知り合
いに話しているのを聞きながら、それはよかったよかっ
たと一人ごちて、白鳥と無数の鴨を観察した。
間近で見ると、それはそれで白鳥も可愛いものである。
そんな鳥達の姿を優しく見守るおじさんは、あと少しの
白鳥の姿を察し、つまり北帰行が近付いているので、こ
ころなしか寂しそうであった(ちょっと脚色)。

その後、あの猛禽類は「チュウヒ」であると同定した(勝
手に)。


コメント

失せ物

2008年03月12日 | Weblog


相変わらず、「デジカメ」は行方不明のまま。
どう考えてもなくなるはずが無いのだが。
にも拘らず見つからないというこの事実、一体どう受け
止めれば良いのか。
気分の悪いところに追い討ちをかけるように、めがね
が見つからない。
いくつかある一つなのだが、これも確かここに置いた
はずだがという場所に無い。
全く、どうなっているんだ。
ひょっとして、認知症か。
若年性というのもあるし、油断はならない。
今は何が起こるか分からない世の中である(いつの世の
中もそうであるが)。

それにしても、「デジカメ」がないと、アウトドアの楽し
みが減ってしまう。
この場合のアウトドアは、単純に家の外という意味。
殆ど散歩と同義語だ。
ということは、今まで散歩が、いかに「デジカメ」に依
存していたか。
そもそも、散歩の楽しみというのは、そういうものでは
ないはずだ。
何かをコレクションするためにするわけではない。
いろんなものを見ながら、感じながら楽しむのが散歩で
あるはずだ。
それが、記録のために調査、或いは観察、ある具体的な
目的のためということになってしまっているのが現状だ。
本来、もっと自由であるべきだ。
何の目的もなく、唯逍遥し、思索の自立運動に任せる、
こうあるべきなのだ。
道具に頼ってはならない。
ここは、原点に返るべきなのだ。
散歩道の誕生である。

と言いたいところだが、明治の文人でもあるまいし、
今は今の楽しみ方がある。
出来れば、道具に頼らずが良いのだが、道具があるこ
とによって新たな楽しみが生まれるのも事実なのだ。
我が散歩推進委員会(今結成)としては、「デジカメ」
を必須アイテムと認定したい。
これだけ適した道具が嘗てあったろうか。
フィルム時代は、手軽さという点で劣っていて、記念
撮影でかしこまって撮る、つまり記録として残すとい
う意味合いが強く、それがある重さにつながった。
一眼カメラとなると、完全にアマチュア写真家という、
これまた重いレッテルを貼られた(機材も重いし)。
いろんな意味の重さから開放してくれたのが「デジカメ」
なのである。
この軽さが、散歩の軽快さを更に押し進めてくれる。
散歩界のジャンヌ.ダルク。

問題は、デジカメ礼賛をいくらしたところで、失せた
「デジカメ」が見つかるわけではないと言うことだ。

コメント

ファラフェル3

2008年03月11日 | 食べ物


本場の味(イスラエル)を知ったところで、いよいよ
改良版「ファラフェル」を作ることにした。
前回、クミンを入れすぎたのでそこは慎重に。
ふやかしたヒヨコ豆をフードプロセッサーに入れ、パ
セリ、玉ねぎ、ニンニク、そしてクミンも入れ全てを粉
砕。
そして固さをチェック。
前回、これも改善点として挙がっていたもの。
あまりに水気が無くぱさぱさだったのだ。
レモン汁を入れ、更に水を足しながら、ゆるくする。
大体こんなものかというところで、塩を足し味を見る。
不味い。
というのも、この時点ではヒヨコ豆が生なので、美味
くないのだ。
飽くまでも、塩気の確認だ。
前回よりはかなりゆるい。
こんなにゆるくて大丈夫か、と少々不安はあったが、こ
れでやってみることにした。

油を熱し(前回使ったオリーヴオイル)、あまり温度
を上げ過ぎないように注意し(前回はちょっと高音す
ぎて、こんがりしても中が生なんてのがあった)、こ
こが一番の技術的なポイントだが、具を丸くして揚げ
るために、ティースプーンで取ったものを手でまとめ
なくてはいけない。
ここも前回とは違うが、パン粉は使わず素揚げにする
のだ。
ということは、予めまとめておいて、それを次から次
に油の中に投入というわけには行かない。
つまり、柔らかいから、成形したと同時に投入という
という手順を踏まないと駄目なのだ。
しかし、片手はティースプーンで塞がっている。
必然的に、左手一本でやらないといけないということ
だ。
少々形が悪くてもやるしかない。

右手で掬った具を、左の手のひらに載せ丸くしようと
試みる。
しかし、やってみるものだ。
手のひらを回転すると、あら不思議、ちゃんと球状に
なってくるではないか。
掬って、くるくる、掬って、くるくる、次々に油の中
に投入して(実際は文章ほど軽快では無いが)、無事
完成。
早速試食。
柔らかさは良い。
しかし、ちょっと酸味が強い。
つまり、レモン汁を入れすぎたのだ。
それに、クミンもまだ強い。
更に、クミン以外のエスニック味も足りない。
ということで、再度味を調整するために、今回作った
具の半分に、新たな具をもう半分足すことにした。
また、ヒヨコ豆をふやかさなくては。
それと、コリアンダーも買わなくては。
それにしても、よくやるよ、と自分でも思う。

コメント

スター

2008年03月10日 | 映画


BSの「アカデミー賞」授賞式を見たが、本場のもの
は華やかだ、とどうしても日本のものと比較して思っ
てしまう。
日本のアカデミー賞は、本家を真似してるのだろうが、
田舎にある、例えば、パルコにしたいのだろう商業ビ
ルの、しかしパルコにはなれない垢抜けなさ、田舎っ
ぽさと同じものを感じる。
要するに、田舎臭いのだ。
はっきり言って止めた方が良いと思う。
華やかさの主役が違うのだから。
と言っても、本家のアカデミー賞がすばらしいと思っ
ているわけでもない。
「虚飾の世界」という言葉がどうしても浮かんでしま
うのだ。

今回見たのは、最後の30分ほどだったが、スターだ
らけで、そういうのが好きな人にとっては夢のような
世界であることは良く分かる。
凄い世界だ、ともいえるし、そうでないともいえる。
個人的には、現実に、もし隣にハリウッドスターがい
たら、ドキッとするだろうが、憧れで見ていなければ、
ドキッとはするが、後は誰かに話す良い材料が出来た
と喜ぶくらいなものかとも思う(エヴァ.グリーンだっ
たらドキドキドキとドキの三乗はいくと思うが)。
スターというものも、そういう憧れの視線があって初
めて成立するものだから、その視線が無ければ、唯の
美形の人間(そうでない人も多いが)かもしれない。

独特のオーラがあるから、それだけではないはずだ、
という理屈も成立つが、そもそもこのオーラというの
は、客観的に検証できるものでもなくそれぞれが感じ
るものだから、共通理解の事実とはなりえない。
はっきりしているのは、憧れで見る人は相当感じるら
しいということだ。
それと、スター本人の身振りというのも関係している。
見られているという意識は、伝播するものだ。
一般人だと、単なる自意識過剰だが、見られている(見
てもらいたい)意識と、見て気付いてああという意識
が幸せな出会いをしたとき、スターの空間が誕生する
わけだ。

そういうものがまるっきり成立たないであろう、例え
ば、アフリカのどこかで人気スターがいることを考え
れば、そのオーラの正体も見えるのではないか。
多分、何も起こらないはずだ。
つまり、オーラというものは、結局は文化によって規
定されるものなのだろう。
コメント

007の2

2008年03月09日 | 映画


昨日の続き。

ショーン.コネリー以降の「007」が、今ひとつ面
白くないというのは多くの人が感じていることだと思
う。
アクションのアイデアとか、当時と比べると、以降は
あまりにいろいろ出尽くし、最早そういうものでは勝
負できないという状況の変化もあるから単純に比較
できないが、やはり、ショーン.コネリーという役者
に負っていた部分が大きいのではないかと思われる。
「軽妙で洒落た主人公しかも強い」というイメージを
追う限り、初代は超えられないのだ。

と、尤もらしく書いたが、ここで思い出した。
第一作は、「カジノ.ロワイヤル」で良いのだが、主演
は「デヴィッド.ニーブン」であった。
軽妙さを強調した笑いの多い作品で、ショーン.コネリー
とは大分イメージが違う。
しかも、シリーズの中では一番面白いと思ったものだ。
考えてみると、元々「007」そのものが好きであった
という事実も無かった。
テレビでやってると、見るときがあるという程度の関
わりだったのだ。

しかしここまできたので、新しい「007カジノ.ロワイ
ヤル」について。
主演のダニエル.クレイグという役者は、良く知らな
いが、見た目は所謂美男子ではなく、ごつい感じ。
しかし、それこそが彼の魅力であると思う。
今までに無い、孤独なイメージが新鮮である。
これだけで大分違う。
実際映画の中でも、都会的でスマートなというイメージ
では無く、むしろハードボイルド、冷徹なスパイというイ
メージである。
「ゴルゴ13」のイメージに近いかもしれない(イギリ
スでは、イアン.フレミングの原作のイメージに、一番
近いといわれているらしい)。
つまり、荒唐無稽さより、ちょっと本物っぽさを感じる
ような映画となっているのだ。
展開は、例によって、身近な裏切り者によるどんでん返
し的ものであるが、あまり無理が無い。

あと、特筆すべきはボンドガール。
エヴァ.グリーン。
この女優も知らなかったが、フランス人の、しかもか
なりの美形である。
単に、こちらが知らなかっただけで、ベルトリッチの
映画にも出ている注目株らしいのだが。
なにより驚いたのは、マルレーヌ.ジョベールの娘と
いう事実。
マルレーヌ.ジョベールといえば、言わずと知れた「雨
の訪問者」のヒロイン。
チャールズ.ブロンソンのあの映画だ。
と言っても、これでピンとくる人も少ないと思う。
映画も、当時は話題にはなったが、話題の割には大し
て面白くも無かった。
そんな映画ではあるが、マルレーヌ.ジョベールという
名前だけは深く記憶に刻まれた(何故だか分からない
が)。
その娘だったとは。
そうやって見ると、確かに、すっとした鼻の形は似てい
るかもしれない。
ハリウッド系と違ってちょっと知的に見えるのも、フラ
ンス系のなせる業か。

主役もヒロインもどちらも良い、ということで結果、「0
07カジノ.ロワイヤル」は結構楽しめる映画であった。
そういえば、ジャンカルロ.ジャンニーニなんて役者
も出ていた。


コメント

007

2008年03月08日 | 芸術


昨日の偶然。
NHKの「美の壺」を見たら、「東寺」の五重塔が紹
介されていた。
そこにかかっていたBGMに、思わず耳がぴくっとなっ
た。
ピアノなのだが、その哀調を帯びた曲、忘れもしない
これは「ラスベガスタンゴ」ではないですか。
このところ、T君との間で密かに「アワーブーム」と
なっていたギル.エヴァンスの「ラスベガスタンゴ」。
ギルエバンス版ではなかったが、早くもこんなところ
で出会うとは。

こういうのは、単純に嬉しいものである。
なにか個人的に縁が出来たように感じるのだ。
ということは、基本的に関係性を求めているというこ
となのか。
それはそれで、面倒くさいはずなのだが、こういう一
方的な関係性は、それ以上進むことは無いので、常に
一定距離を保てる。
そんないろんな種類の関係の網の中で暮らしてるのが
人間なのである、人はこれを「文化」と呼ぶ、って何
を言ってるのか。
まあ、兎に角その距離感がいいのである。
「密かな楽しみ」という部類のものだ。
この「密かな楽しみ」というのは、個人の領域なので
誰が何を言おうが、関係系の中の話なのだがそれこそ
「関係ない」のである。

と、わけの分からない話は放っといて、先日、久しぶ
りに「蔦屋」にDVDを借りに行った。
アルトマンの「今宵、フィッツジェラルド劇場で」を
借りようと思ったのだ。
ところが、お目当ては見つからない。
どうしようか、他に何か無いかと、棚を端から探索す
る。
これと言ったものが見つからない。
こうなったら完全娯楽作品だ、というわけで「007
カジノ.ロワイヤル」を借りることにした。
確か、ここ最近の007では、割に評判が良かったよ
うに思ったが。
ボンド役も変わったし。
「ダニエル.クレイグ」、今までのボンドとは大分イ
メージが違うように感じる。
見た目からして硬派である。
今までの優男のボンドとは一線を画している。

実際ボンドは、ショーン.コネリーのイメージが強く、
それ以降の作品は一つも面白くなかった。
と断言したが、全部見たわけでもなかった。
兎に角、全体に仕掛けばかりが大袈裟になり、遊園地
的な幼稚な娯楽作品の傾向にあように感じられた。
内容も、あまりに絵空事であったし、それだったら「電
撃フリント」くらいのB級映画の方が、遥かに楽しめ
ると思ったものだ。
そこで、果たして今回のものは、となったわけだ。


一応続く。


コメント

洗車

2008年03月07日 | Weblog


昨日、生まれて初めて「洗車マシーン」(で良いのか、
ガソリンンスタンドによくあるやつ)を使って、洗車
をした。
考えてみると、洗車マシーンを使うとか使わないとか
言う前に、洗車自体がかなり久しぶりな出来事だった。
今の車を買って、4年は経ったが、前回の洗車がいつ
だったかの思い出せない。
ひょっとすると、年に一度もしてないかもしれない。
まあ、そのくらい洗車はしないのだが、ここのところ
雪が降ったりで相当よごれが目立ってきていた。
雨が降れば(しかも土砂降り)、洗車代わりに車を出
せば良いのだがこの冬はそうもいかない。
で、あまりな汚さにとうとう行く決心をしたわけだ。

今まで使ったこと無いマシーンは、やり方が判らない
のでちょっと緊張する。
例えば、キャッシュディスペンサーなども、いつも使っ
てる機械ではない違う銀行などのものを使う時は、ま
ごまごしたりするものだ。
それが初めての、全く要領の分からないマシーンであ
ればその緊張は如何ばかりであろうか。

現場には、すでに一台の先客がいた。
何だか操作に手間取っている。
これこれ、この状況を恐れていたのだ。
出たり入ったりして、リアワイパーをガムテープで固
定したりと慌しかった。
自分でも、まずいと思ったのか、こちらに向かって「す
いませんと」と挨拶する。
こちらは全く気にしてないのだが(いつ立場が逆転す
るか分からないのだから)。
何とか先客は、マシーンに入った。
いよいよこちらの番だ。
操作盤の指示に従って操作するわけだが、確かにいろ
んな注意書きとかあり、良く見ないと分かり辛い。
先客を見ていて、ワイパーを固定しなくてはならない
ことは分かっていたので、備え付けのガムテープで固
定する。
それで一回外に出る。
そしてもう一度確認すると、アンテナもどうにかしな
いといけないことが分かり、再び外に出て、取り外す。
結局、先客と同じようなことをやっているではないか。
良かった、先客がいて。
おかげで余裕を持てたのだから。
すでに後ろには、二台も待ちの状態だった。

今度は場内音声に従って、車を所定の位置に止める。
後は、勝手にマシーンがやってくれる。
その時、一瞬、くらっと来た。
周りの囲いが移動して、良く電車などで隣の車両が動
いて、自分の車両が動いたように感じる時のあの眩暈
のような感覚、あれと同じようなものを味わったのだ。
慣れてる人にとっては何でもないだろうが、初めてだ
と、一つ一つのことが新鮮なのだ。

そして、マシーンが2往復ばかりして終了。
久しぶりにきれいになった車は、心なしかいつもより
誇らし気な顔をしていた(全くの嘘です)。
コメント

コンパクトデジカメが見当たらない

2008年03月06日 | Weblog


愛用と言うほど愛着があるわけではない「コンパクトデ
ジカメ」が、見当たらない。
無くなるはずが無いのに、無い。
決まったところに置かないと、こういう運命を辿るのが
この手のものだ。
それにしても、どこに行ったのか。
「コンパクトデジカメ」と言っても、今のような薄い
ものではなく、落としても直ぐに壊れるような柔なや
つでもなく、鎧に覆われたようなそれなりに存在感は
あるものだ。
唯、電池は直ぐになくなる。
最近では、20枚も撮れば交換、というほど頼りない
状態になっていた。
しかも、ピントが半押しでなかなか反応しないという
症状もあり、だから今ひとつ愛着も持てなかったのだ。
電池が直ぐになくなるというのは、始めから感じてた
ことだが、デジカメの全体的傾向ということで納得し
ていたのだが、20枚はあんまりだろう。
画質も、標準(昔のだから150万画素程度)でのこ
とだ。
下手をすると、10枚くらいで赤ランプが点滅なんて
こともある。
それはいくらなんでも、であろう。
唯一の救いは、単三電池が使えるということ。
だから、「今日は撮りに行くぞ」と気合が入っている
時には常に携帯することにしている。
「コンパクトデジカメ」でもなんでも、気合だけは入
る時には入るのである。

ところが最近は、皆良いカメラを持っている。
一眼デジカメは最早常識のようだ。
それに、レンズも、バズーカ砲かと思うようなものま
で持っている人もいる。
特に、野鳥関係を狙っている人。
だから、絶対にそういうところには行かないから良い
のだが、どうもそういう「本格派」の人には遭遇した
くないという気持ちもあるようだ。
根本的に撮るものが違うのだから、気にする必要はな
いのだが、どこか、しょぼいコンパクトデジカメに引け
目を感じているのであろう。
この点は、まだ、修行が足りないのだなと思っている。

そんな気持ちは勿論あるのだが、もう一つ苦手なもの
があるのだ。
「本格派」特有の格好。
なんて言うのか、あの半球状の帽子、それとベスト(ルアー
フィッシングのと同じような)。
ああいう格好がどうも駄目だ。
よく、格好から入るという言い方をするが、実際、そ
ういう人は多く、それも楽しみの一つとなっている節
がある。
「ごっこ」の楽しみなのかもしれない。
基本的に、中身がそれなりに伴わないとちょっと、と
思ってしまうのでその時点で駄目なのだろう。
中身がどうのなんて関係ないし、分かり様も無いのだ
が、そんな気持ちが、逆に、ますますそれっぽい格好
から遠ざける力として働く。
要するに、ひねくれているだけということでした。
コメント

ミンダナオ

2008年03月04日 | Weblog


昨日TBSで、藤原紀香が案内役の「明日のために.
今」という番組を放映していた。
世界の貧しい国、或いは日本の環境のために何が出来
るかという趣旨で、若者を現地に派遣したり、小学生
に考えさせたりするという番組だ。
当然、それぞれにタレントも用意する。
この手の番組に共通する、偽善的で自己完結的な側面
は致し方ない。
テレビ局で設定したシナリオにそって、それぞれのドラ
マを演じているという構造も健在。
それに、たまたまテレビで取り上げられたところが幸
運だっただけで、状況は何も変わらない、という醒め
た見方も可能。
反面、少なくとも、取り上げられたところだけは、た
とえ一時の幸せにしても得たのだからそれなりの価値
はある、とも考えられる。
それより、タレントはどっさり貰ってるんだから、そ
のお金を有効利用すれば、相当なことができるはずだ、
というのも、常に感じることでもある。
どう作ろうが、胡散臭くなるのがこの手の番組である。

しかし、今回はその活動を知っている「松居友」さん
という日本人の活動拠点の村が舞台だったので、普段
は見ない(特に民放はタレントが目障り)のだがじっ
くり見たのだった。
その感想は、一言、あまりに薄っぺら。
これじゃあ、単なる「ウルルン滞在記」だ。
同じテレビ局だから、お手の物か、とつい勘ぐるよう
な内容の無さだった。
松井さんの普段の地道な活動に触れることも無く、若
者が現地に溶け込む様子を撮りつつ、意見の食い違い
という小波乱(全然大したことではない)も盛り込み
一つの成長物語として描いていく(実際はそれなりに
顔つきは変わったらしいが)。
一週間やそこらでそうそうドラマは起きないのだが、
最後は涙というお約束。
あまりに表面的な。
こういうのを「漸進的横滑り」というのだろうか。

松井さんの活動拠点は、ミンダナオのゲリラが出没す
る近くで、危険でもあり、そして資金的にも厳しく、
個人の意思によって支えられているという状態だ。
もう少し本人の活動に焦点を当てても良いのでは、と
思わずにはいられなかった。
感動ドラマだったら、本物の話があるのに、テレビと
いうのは結局この程度で終わってしまう。
ここも、やらないよりは益しか、位に考えた方が良い
ということなのか。
コメント

スティングとプリンス

2008年03月03日 | 音楽


スノッブなM氏が貸してくれた、「ポリス」のライブ
のDVDは、またしても見られなかった。
フォーマットが対応してないという、いつものあれだ。
確か、外付けDVDレコーダーは、殆どのDVDに対
応してる筈だったが、どうも良く分からない。
良く分からないと言えば、M氏が「ポリス」を持ってき
た理由も。
「ポリス」が好きだなどと言った覚えは無いのだが。
昔、何度も聴いたことはあるが、それは、たまたま好き
な人間がいてついでに聴いていたからだ。
自発的には聴いたことは無い。
ああ、「スティング」のCDは一枚あった。
「ブルー.タートルの夢」だ。
忘れてしまうくらいの、関わりなのだが。

ひょっとして、「プリンス」と「スティング」を間違えて
るんじゃなかろうか。
音楽性は全く違うのだが、「プリンス」と「スティング」、
語感が似ているのだ。
以前も、間違えられたことがある。
何か、音楽の話になって、「...さん、スティングも
良いですよね」と言われ、その時も、一瞬何故スティング
なのだと思ったが、後で考えたら、「プリンス」と間違
えていたのだなと判った。
そして、更に思い返してみると、自分でも「プリンス」
を「スティング」と言ってしまったことがあったのだ。
これも「言いまつがい」の一種か。
この、「プリンス」と「スティング」の混同の普遍性
はどれほどだろうか。
はたまた、地域限定なのだろうか、ちょっと気なると
ころである。

DVDの「ポリス」は別に見られなくても良いのだが、
本当はもう一つの方が惜しい。
「森一生」の映画も録画したということだったのだ。
タイトルは、本人も忘れてなんだか判らないが、そう
いうことらしいのだ。
残念。
それにしても、DVDのフォーマット、どうにかなら
ないのか。
もう一つ、gooのブログ、アップする時に、一瞬にし
て今まで書いたものが消えるという事態が頻発する。
今さっきそうなった。
これは、gooの得意技らしく、いろんなブログで嘆
かれている。
この程度の文章でも、書くとそれなりの労力を要する。
それが消えてしまうのは、結構なショックなのだ。
何回か、それを経験して、今ではアップする前に記事
をコピーすることにしている。
それなりにこちらでも手を打たないと、ということで
ある。
コメント

ファラフェル2

2008年03月02日 | 食べ物


昨日の最後、思い出せなかった俳優の名前、あの後数
時間したところでふっと思い出した。
「ニコラス.ケイジ」である。
その時、これからは、ジョン.ケイジ、ジョン刑事、刑
事ジョン.ブックと関連付けていけば良いではないか、
と思った。
問題は、ニコラスだが、ここは、刑事ジョン.ブックが追う
犯人ニコラス.ペタスと覚えれば良い。
これはなかなか良いアイデアだと思ったが、その前に、
そこまでして覚えるべき名前かニコラス.ケイジは、と
いう大きな問題があった。
全くその必要はないのであるが、これも一つの言葉遊
びとして、少しは脳の活性化のためになるのではないか、
ということにしておこうと思った。

さて、「ファラフェル」であるが、その後検索してお取
りよせができる店を発見した。
京都にある「ファラフェルガーデン」という店で、イス
ラエル人が経営しているらしい。
ここだったら本場の味を提供してるだろう、ということ
で早速注文した。
本場では「ピタパン」というナンに似たパンにはさみ食
べるスタイルが一般的ということで、それも頼み、これ
も本場では一般的というソースも一緒に頼んだ。
メールで注文したが、確認のメールも来ず、ちゃんと注
文通っているのか不安であったが、二日後無事に到着
した。

それらは冷凍状態で、揚げるだけの段になっている。
見た目での違いは、まず「ファラフェル」の大きさ。
こちらが作ったのは、ゴルフボールより一回り大きいサ
イズ。
きたものは二回り小さいサイズ。
量からすれば半分以下だ。
このくらいの大きさが標準なのか。
形も球ではなく、扁平、ちょうど錠剤を大きくしたよう
な形である。
そして色であるが、全体が緑っぽい。
これは、パセリの色である。
パセリは必須なのか。
もう一つ大事なことがあった、パン粉を使ってないのだ。
要するに素揚げということだ。
これだけでも、本場物とはいろいろ違いがある事が判っ
た。
やはりスタンダードを知らないとね、ということであろ
う。

肝心の味の方であるが、パセリはやはり必要であった。
そしてクミンは、これもはやり使いすぎであった(前回
の自分のものは)。
全体の味に調和が必要なのだ。
そして固さだ。
前回は、水気も無くかなりぼそぼそな感じで、乾燥地帯
の食べ物だからこんなものかと勝手に思っていたが、本
場物はもう少し水気があり柔らかかった。
それでもぼそぼそ感は否めないが、基本は揚げたてを食
べるであるようなので問題ないのだろう。

ピタパンにはさんで食べる「ファラフェル」は、乾燥し
た大地を照らすエルサレムの太陽、その光線に乱反射し
た空気がエントロピーを増大し歓喜の雄たけびを上げる、
そんな瞬間の味であった(嘘です)。

コメント

人の名前

2008年03月01日 | Weblog


前にも書いたことあるが、人の名前というのは忘れる
一方である。
映画監督や俳優の名前なども、以前ならポンポンポン
と気持ちよくでてきたものだが、今は「えーっと、誰
だっけあれあれ、あれだよ」なんて会話がすっかり日
常化してしまった。
そこで、予防策として関連付けという手法を取る。
名前を思い出すために、他の名前と関連付けて導き出
そうというものだ。
例えば、以前は良く思い出せなくなった名前のデニス.
ホッパー。
これはグラスホッパーから。
このバッタのおかげで、今は直ぐに思い出すことが出
来る。
つまり、忘れた時にはバッタを思い出せば良いのだ。

他には、ティム.バートン。
この名前は、ちょっと重症で、すんなり出た方が珍し
いくらいに以前は思い出せなかった。
丸一日思い出せないこともしばしば。
で、何と関連付けたかというとエリザベス.テーラー
だ。
本人ではなく、旦那の名前。
リチャード.バートンだ。
但し、この場合リスクが大きい。
リチャード.バートンの名前が思い出せない可能性が
あるからだ。
つい最近、そのケースに遭遇した。
そうなったらもうお手上げだ。
そして更に、バートンを思い出してもティムが思い出
せないという可能性もあるのだ。
つい最近のケースが正しくそれだった。
最初、リチャード.バートンが出てこなくてお手上げ
だったのだが、その後何とか思い出した。
しかし、ティムが。
バートンさえ思い出せば、周りの誰かが知っているだ
ろうと思ったのだが、周りの連中は最初から知らない
という、以前の問題であったのだ。

同じようなケースとしては、マイケル.キートン。
これはバスター.キートンからの関連付けだ。
更に念入りに、バスター.キートンには益田喜頓 が
控えている。
順番からすると、益田喜頓 、バスター.キートン、
マイケル.キートンということになる。
そもそも益田喜頓がバスター.キートンから取ったも
のだが、この際その正しい順番は関係ない。
それで、キートンは無事に出るのだが、マイケルが出
てこないという事態が間々あるということなのだ。
マイケルなんて普通の名前なのに、出てこないときは
出てこない。

出やすい出にくいはどこで決まるのだろうか。
これが不思議だ。
難しいからというのは関係無さそうだ。
何故かというと、例えば、イランの監督のアッバス.
キアロスタミとか、或いはもっと複雑なクシシュトフ.
キェシロフスキーなんて名前は割りにすらすら出てく
るのだ。
アレハンドロ.ホドロフスキーなんてのもそうだろう。
一字違いとかはあるが、全体が出てこないというのは
無いのだ。
自分でも、なんでこんな名前覚えてるのだろうと思う
ことがある。
一体、何故なのだろうか。

それで、今現在思い出せないのは、「フェイスオフ」
とか「スネークアイ」のあの主演俳優の名前。
この名前も「思い出せない名前軍団」の常連である。
コメント