今から20年程前、わたしは3週間ほどイスラエルに滞在しました。
ちょうど今頃、7月後半から8月にかけて、エルサレムの旧市街地近くにある、アメリカの研究所を拠点に、イスラエルのあちこちをフィールドトリップしながら、聖書考古学、聖書地理学を学ぶツアーに参加したのです。
以下は当時の写真(すべてわたしのカメラの写真です)。
赤い服はわたし本人。研究所自体も、旧市街と同じく石作りの古い建物で、宿泊した部屋も不思議な空間でした。最初の夜はさすがに怖かったけれど、住めば都。見た目よりも快適でしたよ。
(首都)エルサレム(( )付き。国際的には認められていません。)。
3大宗教の中心地として、圧倒的な存在感を誇る街。
「エルサレム症候群」という病まであるくらいに、人を魅了して離さない街。
エルサレム旧市街地内の様子
城壁に囲まれた旧市街地を、東の丘から眺めたところ。手前の箱のようなものは、ユダヤ人のお墓。
有名な「嘆きの壁」。向こうに見えるのは、黄金のドーム。ちょうど補修中でした。
旧市街地の糞門を出たところにある「ダビデの町」と言われた辺り。パレスチナの人々が多く住んでいます。
当時からそこに住んでいるパレスチナ人とユダヤ人の生活の格差はくっきり出ていました。
これはエルサレムの郊外にあるユダヤ人入植地。きれいな建物が続きます。
イスラエルという国は、四国ほどの大きさだと言われていますが、気候も地形も変化に富んでいます。
エルサレムの東側に広がる荒野(ユダの荒野)。カラカラな気候。
イスラエルの北の方、ガリラヤ湖を見下ろす丘から。結構緑豊かです。湿気もあります。
エルサレムの南東方向にある死海。浮いています。
さらに南の方。ティムナにて。砂漠といった感じ。
超巨大なクレーター地形ミツペ・ラモン
エイラートまで南下すると、美しい紅海の景色になります。
当時、イスラエル社会とアラブ社会は、イツハク・ラビン首相とアラファト議長が和平交渉を進め、近年の中では、比較的落ち着いた時期でした。
そんな時期であっても、
テルアビブ国際空港では、全員がスーツケースから手荷物から全部開けられ、中のものも細かくチェックされ、質問も細かくされる、厳しい出入国チェックを受けたり、
エルサレムの旧市街を歩いていると、銃を持ったイスラエル兵には出会い、ユダヤ人クオーターに入る時には、持ち物検査を受けることもあり、
ガザ近くへ行ったときは、突然遠くに何かが爆発した煙があがり、
イスラエルの一番北の方へ行く予定が、イスラエルとレバノンの小競り合いが始まり、突然戦闘機がレバノンに向かって飛んで行く光景も目の当たりにし、ヒヤヒヤすることもたくさんありました。
当時、レバノンとイスラエルの小競り合いは、日本の新聞ではかなり大きく取り上げられていましたが、イスラエルにいるわたしたちには、特に大変な情報として入ってきていませんでした。ただ、「危ないのでゴラン高原のほうには行けなくなりました~」との話だけ。
このような戦闘やテロが当たり前になっている国。
わたしたち日本人にとっては、非日常のとても緊迫した世界なのに、何とも思わずのんびり滞在していたわたしたちの平和ボケ度。
いろいろ考えさせられました。
今、またイスラエルとパレスチナとの関係がさらに悪化し、イスラエルがガザ地区へ地上侵攻していると聞くと、胸が痛みます。
テルアビブ国際空港も閉鎖になるとか。
この地域の問題を深く語る知識を、わたしは持ち合わせていませんし、パレスチナ問題は単純な問題ではないのですが、たった3週間でも彼ら双方の生活を直に見ていて強く感じたのは、圧倒的に力を持っているイスラエル、ユダヤ人が、もっとパレスチナの人々に寛容であるべきということでした。今回のことで言えば、まずは、即刻イスラエル軍が、兵をガザ地区から引き上げるべきだと思います。
血で血を洗うような状況は、双方にとって永遠に続く悲劇であることを、何より当事者たちが一番よくわかっていると思うのですが・・・。巻き込まれて命を落としていくのは、何の罪もない弱い立場の市民たちなのです。
本当に辛い現実です。
一刻も早い解決を祈ります。