手帳なわたし

手帳オタクな私。若い時からその時々の生活のスタイルに合わせて手帳を選び、使い方を工夫してきました。私の今の究極をご紹介。

手帳もいらない??!& 鎖骨骨折生活6日目

2019-10-17 | 手帳・雑感

 

 

 

人間、

だんだん開き直ることができるものですね。

 

不便の極みを何とか克服し

普通に生活できるありがたみを実感してます。

 

20代の頃、二度ほど

病院で何ヶ月かの療養をしました。

その時は独身でしたし、若かった。

自分がいなくて迷惑をかけてるところは、仕事先だけで、

そんなに心の負担もなかったわけですが、

流石にへこたれました。

 

でも、見舞いに来てくれる友人たちが、

「病院に行けば必ずいるというのはすごい」

「いつもは捕まえられないからね」と笑ってたのを聞いて、

何だかわからないけど、そこにいることに意味があると感じたことがありました。

 

どんな状態でも、誰かの役に立ってるかも・・・とさらに思わされたのは、

隣のベッドにいらしたカトリックのシスターとの出会いで。

 

彼女は心臓弁膜症で入院、手術を受けられることになっていました。

日頃はたくさんの奉仕をしてこられていたことでしょう、

入院して他にすることがなくなったら、

「今度はしっかり祈ることに集中できる」と言われ、

麻酔がかかった手術中は「イエス様とお散歩をしてくる」と言われてたんです。

若いわたしは、それまで考えもしなかった言葉に目からウロコでした。

もちろん後日談があって、

彼女、手術の麻酔から目覚めて開口一番わたしに言ったことは、

「お散歩どころではなかった。すぐに目が覚めた」。

二人で大笑いしたのは懐かしい思い出です。

 

「どんな状態でもできることがある」

「何もできなくても、そこにいるということが大事」

これはわたし自身の入院中の体験から得た教訓かもしれません。

 

今の所、右手はダメでも左手が、

そして足は元気に動きます。

 

利き手の右手が動かないと、

できることが変わってくるということにも気づかされています。

大好きでやってきたこと、

例えばキルトにしても、水泳にしても、

絵手紙にしても、それらは全くできないし、

文字を書けないから手帳は全く機能せず。


右手でやって来たものはすべて休止。

他のものを動かさないといけなくて、

まずは手帳に結びつく予定や段取りは、

できるだけ頭で記憶しなければと思うと、

頭がそれなりにくるくる回る。

 

細かく段取りができなくなったら、

大雑把でもいいと思うしかない。

 

それでも日々は過ぎていく。

と、いうことですね。

 

今日も手帳ブログを書きながら、

「手帳がなくてもなんてことないさ〜」ってうそぶいてます。

いやいや、実はこれも一面真実かも。

 

 

こういう風に怪我をしたり病気をしたりして、

通常の生活を送れないのを嘆くわたしですが、

結局、

歳をとっていくというのは、

普通にしててもこういう日々が増えていくということですもんね。

 

現実を少しずつでも受け入れながら、

やれることを見つけ、

これまでできなかったことができたりもするのを楽しみに、

生きていくということなのだろうなと思っています。

 

あることができなければ、他のことができるわけで。

 

「手帳なんて、究極なくても大丈夫」

「手帳は、まんじゅう顔のお楽しみ・趣味」くらいに考えて、

今の手帳の空白も受け入れ、


晴れて右手が使えるようになったら、

新たな思いで手帳に向かうことを楽しみにしたいと思います。

 

 

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コメント (4)
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