宮島大輔は病院のベッドに横たわっていた。
苗場でスキーをやっていて、突然進路を変えた初心者を避けようとして転倒したのだ。
間一髪、衝突は免れたが、原因となった若い女は、周囲の者が集まって来ると早々に姿を消していた。
クソッと力んでみたが、大腿骨に違和感があった。
その時点では大した痛みを感じなかったが、利き足全体が硬直したようになり、その場で立ちあがることができなかった。
程なく駆けつけたレスキュー隊の青年二人に救助され、地元の救急病院に搬送された。
すぐにレントゲン写真を撮られ、右足大腿骨の骨折が明らかになった。
複雑骨折だと手術をすることになるが、きみの場合は損傷が少なくて幸いだったと慰められた。
診察したのは体格のいい中年の医師で、大学の運動部を出てきたような風貌をしていた。
看護師への指示も命令的で、怪我人の扱いには慣れきっているという感じだった。
「ギブス!」診察が終わると、その一言で大腿部の固定がはじまった。
ぬるぬるした薬剤を塗った上にガーゼが巻かれ、さらにそれを包み込むように石膏が塗りたくられた。
固定を終えると、医師はこのまま処置室で待つように言ってどこかへ消えた。
やがて、石膏が固まるのを待っていたように医師が現れた。
なんと、手にカッターを持っている。
看護師が金属製の台を押してきて、大輔の足を載せた。
「切るよッ・・・・」
医師はカッターの刃を押し出し、大腿部から膝にかけて一直線に切り下げた。
一瞬ドキッとしたのは、カッターの刃が少し錆びていたからだ。
切れが悪く力を入れ過ぎたら、皮膚まで達してしまいそうな恐怖を覚えたのだ。
「楽にしていいよ」
びくびくしている大輔を、医師はニコリともしないで見おろした。
その後、抗生物質と痛み止めの薬が処方された。
「先生、治るまでどのくらいかかりますか」
「全治四カ月というところかな。しばらくは動けないよ」
入院を指示されて、頭の中が混乱した。
家族や友人への連絡、借りたままのDVDの返却、スキー場の駐車場に置きっぱなしの自動車の処理など、厄介なことが次々に浮かんだ。
手元に携帯電話があればなんとかなるのだが、うっかりクルマの中に残してきた。
スキーウェアーの格好ばかり気にして、邪魔なものは一切身につけなかったのだ。
自分のテクニックを過信して、事故を起こすことなど全く考えていなかった。
いつも通りの日常を中断しても、数時間後には変わらぬ形であっさり戻って来るものと思っていた。
ところが一たび身体の自由を失ってみると、当たり前のことが実に厄介なものとして目の前に横たわっていた。
とりあえず、いま何をすべきか。
まず頭に浮かんだのは、スキー場の駐車場に置いたクルマから自分の荷物を取って来ることだった。
着換えの衣類などを入れたスポーツバッグさえ戻ってくれば、その中に携帯電話が入っている。
携帯電話こそ、いま一番必要な頭脳であり、手足であった。
友人や家族と繋がる手段、メールや電話の履歴など基本情報がぎっしり詰まっている万能のボックスであった。
しかし自分では取りに行けないから、誰かに頼むしかない。
だが、レスキュー隊の人間に、ぼくの荷物を持ってきてくれなどとはとても言えない。
彼らの守備範囲を超えていることは、考えるまでもないことだった。
そうしてみると、大輔がいま何かを頼めるのは、病院関係者しかいない。
直接接触できる整形外科の医師と、その命令で動く数名の看護師だけであった。
ヘタなことを頼むと、あのイカツイ先生に一喝されそうだ。
患者に接する態度から見て、相談に乗ってくれる可能性はほとんどなさそうに思えた。
となれば、親切そうな看護師に当たってみるしかない。
職務を超えて、大輔の悩みを聞いてくれる人がいるかどうかだが・・・・。
ほどなく夕食の時刻になり、配膳車で食事が運ばれてきた。
歩くことのできる患者は、食堂で食べることになっていた。
同部屋の老人は、自分の箸箱をカチャカチャ揺すりながら、肩からカーデガンをひっかけた姿で病室を出ていった。
新入りの若造のことなど、気にも留めていない様子だった。
いや、むしろ、スキーで転倒して大怪我をした奴のことなんか、いい気味だぐらいに思っていたかもしれない。
チャラチャラ遊びに来ていい気なもんだよと、老人の胸の内が聞こえてきそうな気がした。
「宮島さん、ベッドを起こしますよ」
看護師がハンドルを操作して、大輔の上半身がわずかに起きるようにした。
そしてベッドの枠に渡す簡易テーブルをセットし、煮ものや焼き魚を並べたトレイが置かれた。
「食事が終わったころ下げに来ますから・・・・」
三十歳代の看護師が、忙しそうに立ち去ろうとしていた。
「あのう・・・・」
大輔はすがるような声で呼びとめた。「すみません、クルマの中から荷物を取って来たいんですが、どうしたらいいでしょうか」
「えっ、クルマってどこにあるの?」
「スキー場の駐車場です。バッグの中に財布とケータイが入っているので、それがないと何も出来なくて」
「困ったわね。でもスキー場まで二キロも離れているわ。それに夕方になって吹雪いてきているし・・・・」
「そうですか」
「・・・・とりあえず、事務の人に言っておくわ」
看護師はそそくさとその場を去った。
他の患者の面倒も見なくてはならないだろうから、誰かに連絡を付けてくれるだけでもありがたかった。
小一時間たったころ、別の看護師が食器を下げに来た。
手早くトレイを片付け、ベッドを水平に戻した。
「あのう、事務の人っていつ来てくれるんでしょうか」
大輔はおそるおそる問いかけた。
「事務? 聞いてないけど、何か約束でもあるの?」
「いや、さっき別の看護師さんに荷物の事を相談したんですけど・・・・」
大輔は、携帯電話が手元にない不便を訴えた。
「そう・・・・。でも事務の人もそろそろ帰る時間じゃないかしら。わたしらだって、もうすぐ引き継ぎの時刻だし」
要領を得ないまま、大輔は不安の状態に放置された。
夜の八時ごろ、大輔は枕もとのナースコールを押した。
我慢していた尿意が、ついに限界に達したのだ。
全面ぐるりと閉じられたカーテンの中で、大輔は股間を探られ分厚いガラスの尿器を当てられた。
大輔はいきんだが、緊張のせいか膀胱の苦しさばかりが意識された。
「楽にすると出るわよ」
若い看護師が、無傷な方の膝を少し浮かせた。
解放される喜びが、下腹部全体に広がった。
「あら、よかったわね。大便の方も我慢しちゃだめよ」
プロフェッショナルなもの言いに安堵した大輔は、「今のところ大丈夫です」と答えた。
看護師が去った後、大輔は気がかりの一つとなっている家への連絡のことを思い出した。
救急車で運ばれる途中、家の住所や電話番号を尋ねられ、隊員を通してそのまま病院に伝えられていた。
だから、入院患者として受け入れるにあたり、病院は大輔の親に諒解なり保証なりを求めたはずだ。
しかし、これまでのところ、病院関係者の誰からも大輔の保護者と連絡がついたという話は聞いていなかった。
(もしかしたら、ウチは留守じゃなかったかな)
商社マンの親父は外国だし、母親は気の合ったマダム連中と温泉旅行に出かけるような話をしていた。
普段から明け透けな母親は、自分が好き放題をやる代わりに大輔が友人のマンションに何泊しても咎めることはなかった。
大輔の方も束縛のない家庭環境を誇らしく思っていたが、今回ばかりはそうもいっていられなかった。
(実際のところ、東京の家とは連絡が付いたのだろうか・・・・)
確かめるためには、看護師に訊くか自宅に電話をしてみるしかない。
深夜あれこれ考えていると、痛みと不安に襲われてなかなか寝就けなかった。
同室の老人は早々と眠りに落ちたらしい。
引きずるようなイビキをかいて、時折寝返りをうつ気配があった。
大輔は解決の糸口さえつかめないままに、天井の闇を見詰めていた。
自分が動けないと、こうも歯がゆい思いをしなければならないのか。
(借りたDVDの返却期限はいつだったかな・・・・)
ずっと気になっていたことが、改めて気懸りとなって浮上した。
このまま入院がつづき延滞が長引くと、とんでもない違約金を払わなくてはならない。
遊び仲間に頼んで、自分の家まで取りに行ってもらおうか。
母親は、レンタルビデオ店の仕組みなど知るはずもない。
説明するより、友人に依頼するのが最善だと結論付けた。
だが、友人の電話番号が頭に浮かばない。
いつも着信記録に頼っていたので、真剣に番号を記憶しようなどと思ったことがないのだ。
当直看護師が回ってきたら、とりあえず家に連絡が付いたのか確かめようと思った。
明け方、ひそやかな靴音がして、巡回の看護師が近づいてきた。
足下側のカーテンの隙間から、ペンライトの光が差し込まれた。
一瞬モノの影が流れて、すぐに光が後退した。
「すみません・・・・」大輔はあわてて押し殺したような声をあげた。
「どうかしましたか」
先ほどの看護師が、カーテンの内側に入ってきた。「・・・・眠れないの?」
大輔は眠ってなどいられない状況を訴えた。
家との連絡を確かめると、「誰も出なかったから、留守番電話にメッセージを入れてあるそうよ」と慌てる様子もない。
「ああ、やっぱり。・・・・それじゃあ四、五日帰ってこないよ」
絶望的な声をあげた。
携帯電話さえ持ってこれれば、旅先の親にも友人にも連絡が取れて事態解決へ前進するのに・・・・。
「だから、ケータイを取ってきてほしいのです」
「わかった、明日家政婦紹介所の人に連絡してみる。・・・・身の回りのことを面倒見てくれるから、そうしたこともやってくれるかもしれない」
いまはジタバタしないで、少しでも眠ることが肝心よ、と小声で諭した。
山に囲まれた町に、冬の夜明けはなかなかやってこなかった。
あるいは、昨夜からの雪雲が陽の光をさえぎっているのかもしれなかった。
目覚めのチャイムが流れて、大輔はやっと白々とした眠りから抜け出した。
気分は最悪だった。
痛み止めの効果が薄れるころなのか、自分の肉体とは思えない違和感が腰の先に連なっていた。
重い、とにかく重いのだ。
(苦しい、なんとかしてくれ)
大輔という存在を中心に四方八方に伸びていた糸が、現在はどれ一つ繋がっていなかった。
大学の学生課へ連絡する必要もあったはずだが、それもまだ出来ていない。
日常の中ではそこにいて当たり前の存在だった人びとと、とつじょ関係が遮断されてしまったのだ。
なんという日常の裏切り、小さなケータイと云う機器を介してしか成り立たない危うい日常。
最新の技術がぎっしり詰まった病院に居ながら、身近な人との意思の疎通もままならない現実が大輔を憂鬱にした。
それでも、朝になったらなんとかなるかもしれないという淡い期待をいだいていた。
(多少カネは掛かりそうだが、なんとかなるだろう)
看護師が相談するという家政婦紹介所が、どこまで大輔の希望を適えてくれるかすがる思いだった。
夜勤の看護師が、体温と血圧を測るために回ってきた。
同時に小水の排せつも促された。
二度目なので、恥ずかしさは軽減していた。
「外はまだ吹雪いていますか」
「いや、もう止んでいるわよ」
「それじゃあ、クルマから荷物を取ってこれそうですね」
「あら、まだよ。朝の九時にならなないと連絡がつかないから・・・・」
食事が終わり、痛み止めと抗生物質を飲んだ。
入院生活二日目だった。
九時半ごろになって、新顔の看護師が二つの知らせを持ってきた。
「事務の方から後で入院手続きにくるそうです。・・・・それから、ご要望の件は便利屋さんに頼んだ方がいいのではないかと返事がありました」
大輔は、なるほどと納得した。
そうじゃないかなと内心予想していたところもあった。
病院での付き添いや留守宅での家事手伝いなど、ある程度の日数を稼げるならオーケーしただろう。
だが、四キロ離れた駐車場から荷物を取って来るだけの仕事では、家政婦紹介所側が引き受けるのは難しい。
時給千五百円として、四時間で六千円の仕事など受けたくもないはずだ。
現場までの交通費を加算したとしても、もともと実費なのだから何のメリットもない。
一方、便利屋がどれほどの金額を言い出すかは分からない。
介護保険など国の法律に従った料金体系がある家政婦紹介所と違って、一件一万円ぐらいのことは覚悟しなければならない。
それでも、請け負ってくれる業者があればいいが、病院側でそこまで調べて依頼してくれるかどうか不安が先に立った。
「近辺に便利屋ってあります?」
「タウンページを持ってきますから、ご自分で調べてください」
案の定、期待は外された。
大輔は急に無口になって、怒りのために身を震わせた。
「こんなに何もかも整った世の中で、電話一本かけられない状況って何なのだよ!」
こめかみのあたりの血管がピクピクし、今にも脳出血に見舞われそうな恐怖を感じた。
「通路の公衆電話まで、ベッドを移動しましょうか」
看護師が慌てて言った。「・・・・テレフォンカードも用意しますよ」
「 いやあ、もういい。どうせ連絡はつかないんだし、オレの頭もイカレたらしい。金が払えないと思ったら強制退院でも何でもしてもらっていいですよ」
大輔は、誰に向かって毒づいているのか、自分でもわからなくなっていた。
「宮島さん、ちょっと落ち着いてください。まもなく事務の者が来ますから」
(もう、どうでもいい。オレには誰も信頼できるヤツが居ないんだ)
ツキも、ネットワークも、親もすべて味方してくれなかった。
事務の者が来ようと、遮断された日常が回復するわけではない。
本来、入院前に準備しなければならない書類や了承事項を、後から整えさせようというだけの話だ。
「緊急時だから、例外的に入院させたのですよ」
一夜明けた病室で、患者となった大輔に恩着せがましく通告するだろう。
そろそろ違法状態になるだろうクルマの駐車、レンタルビデオの延滞料加算は大輔の問題だが、病院側にも気がかりはたくさんあるはずだ。
保護者との連絡不能、健康保険証の有無、入院時の保証人欄は不備のまま、金銭的な裏付けも取れていないのだ。
これほど先進国と目される世の中で、血気壮んな若者がピンチに追い込まれるなんてあるのだろうか。
微妙なズレがあったとはいえ、依然大輔は馬鹿げた状況に置かれている。
解決すべき事項は減るどころか、新たに増えようとしているのだった。
パニックに陥った大輔は一晩中悶々として眠りに入れなかったが、朝方ふと救急車のサイレンを聞いたような気がした。
(そうだ、110番すればいいんだ)
夜勤の看護師は、通路にある公衆電話までベッドを移動してくれるといったじゃないか。
夜が明けたら自分で通報しよう。
受話器を外して110をダイヤルすればいいことも思い出した。
普段は躊躇してしまうが、この危機を打開する方法はそれしかない。
パトカーのお巡りさんなら何でもやってくれる。冷静になってみれば解決策はあるものだ。
宮島大輔は、天の啓示をもらったように安心した。
焦る原因の一つだったレンタルビデオの返却遅れも、事情を話せば例外を認めるはずだ。
すべてが楽観的に思えてきたが、まだまだ何か罠がありそうな不安も感じていた。
(おわり)
(2013/06/24より訂正・加筆して再掲)
スキーは得意ではないですが、苗場スキー場は何回か行きました。
骨折したことはないですが、痛くて大変なのでしょうね。
文面からも伝わってきます。
クルマの駐車、レンタルビデオの延滞料、家族との連絡不能、入院手続きなど。。。
問題山積み。。。思わぬ事態です。。。(苦笑)
現在は高度の情報社会ですが、それを得るツールを失うと手も足も出ない事態になるんですよね。
電車の中を見回すと80パーセントの人がケータイをいじっている。
身近な人の電話番号から取引銀行まで、一個のツールに集約して持ち歩く・・・・ひとたび紛失すると思い出せない。
コワイですねえ。
この小説は、スキー場に駐車したクルマの中に携帯電話を置いてきて、滑り終えればすぐに戻れると思っていた主人公が思わぬ転倒骨折で情報遮断されるという設定でした。
<クルマの駐車、レンタルビデオの延滞料、家族との連絡不能、入院手続きなど。。。問題山積み。>
便利さに安易に頼り切る我々への警鐘になりますやら。
それは雪の少ない年で、コースの上に出ていた岩に、スキー板がひっかかり一回転したためでした。
今のスキー板だったら、その様な場合は自動的に外れるのでしょうが、当時の安いスキー板はその様な緊急時にも外れず、右足の膝のアキレス腱を切ってしまいました!
半年間のギブス生活になったのですが、右足を伸ばしたまま固定されたので、右膝を曲げられず、ラッシュ時の地下鉄の階段を歩けないので、朝晩、代々木と大手町間のタクシーの送迎通勤となりました・・・
問題は、職場の大のトイレで、右足を伸ばしたまま排便をしますが、そうすると、右足が外へ出てしまいドアが閉められません!
職場での大は我慢するしかありませんでした・・・( ;∀;)
聞くも涙・・・・でも職場は更家さんを必要としていたんですね。
トイレ問題は、今なら車いす用の個室が用意されていますが、職場では我慢するしかなかったようですね。
いずれにしても、怪我などしてしまうと思わぬ苦労が降りかかるもの、健康が第一とはよく言ったものです。