どうぶつ番外物語

手垢のつかないコトバと切り口で展開する短編小説、ポエム、コラム等を中心にブログ開設20年目を疾走中。

思い出の連載小説『吉村くんの出来事』(3〉

2023-12-15 00:12:00 | 連載小説

    舟艇暮色

 十月のある一日、吉村は休みをどのように過ごそうかと迷ったあげく、スポーツ新聞に載っていたレース・ガイドに誘われて多摩川競艇に出かけることにした。
 山男の彼とギャンブルの間に、親和するものがあるようには思えなかった。しかし相性はともかく、彼自身は遥か以前から賭け事に惹かれる自分の性質に気付いていた。
「おれだって、破れたり崩れたりすることはあるよ・・・・」
 金銭だけの賭博ではなく、人生の要所要所で出合う岐路を前に、運命を賭けてみたい衝動に駆られることがある。吉村はかねがね、ギャンブルが形を変えた祈りのようなものだと信じているところがあった。
 祖母の手で育てられてきた環境が、いままでは彼に堅実な生き方を選ばせてきた。誠実で礼儀正しい人間性に、嘘偽りがあるわけでもない。
 しかし、平穏な日常に仕掛けられた危険な罠の気配を感じ取ると、吉村はなんとなく一か八かの世界を覗いてみたくなるのだ。
(小次郎敗れたり・・・・)
 コトバが先導する運命の餌食になったものもいるし、日常の陥穽に気付かずに足を踏み外したものもいる。どちらにせよ広く人間の嘆きが、聞こえてくるようだ。周囲の同僚や仲間の姿を眺めていても、バカバカしいほどのあっけなさで職場を去っていくものが後を絶たない。
 何ヶ月か前に現金抜き取りで捕まった芹沢の例など、フイにした退職金の額と比較してみれば、狂気の沙汰としかいいようがなかった。
 競艇の予想欄に目をやったとき、吉村の目に1の数字が突き刺さってきた。
 なぜ、突然1が目を射たのか。
 道を過つ人びとの最初の興奮と同じものが吉村を捉えた。そんな自分の姿は、あくまでも冷静なものとして映っている。・・・・こちら側の妄想ではなく、天からの啓示なのだ、と。
 だから、みな運命のささやきを拒絶することはできないのだ。
 ウィークデイに、ぽっかりと空いた休日。
 日曜日や祝日ではなく、仕事の周期で勤務日の隙間に落とし穴のように設けられた一日だけの非就労日。
 <非番日>と名付けられた独自の休日は、例えてみれば認知されない私生児のような翳りをいつも負っていた。
 そこに漂う後ろめたい気分。久美とのデートの約束を避け、山行の予定組み入れを遠ざけさせる休み。非番日は一人ひとり異なるから、仲間と足並みを揃えられない弱みはあるが、そうした理由を超えて扱い難い休日であった。
 だからこそ、ギャンブルという魔物が動いたのだろうか。
 最初に行くと決めた後、吉村には明確な交通経路が思い描けなかった。
 多摩川だから、京王線のどこかだろうと見当をつけた。スポーツ新聞には、地図も住所も載っていない。彼の住む高円寺からは、一旦新宿に出て乗り換えるべきなのだろうかと、迷いながらアパートを出た。
「多摩川競艇場へは、どう行くんスかね」
 吉村は、駅北口の出札窓口で確かめた。
「多摩川競艇場?」
 鸚鵡返しの大声が返ってきた。小柄で四十代とおもわれる駅員は、吉村を一瞥したあと「たしか武蔵境から行くんだったよな」と、奥の同僚に訊いている。
「そうそう」
「お客さん、武蔵境から西武多摩川線というのが出てますから、それに乗り換えてください」
「はい。・・・・それで、そういう駅ってあるんスか」
「そうだよ、多摩川競艇場前という駅があって、そこに競艇場があるから」
 薄ら笑いを浮かべて、吉村をみつめた。
 荻窪で快速電車に乗り継ぎ、思いのほか早く武蔵境に着いたが、西武多摩川線はずいぶん待たされた。
 乗客は初め疎らだったのに、金髪の外人女性が現れ、シャツの裾を外に垂らした学生が現れ、そしてようやく発車時刻のアナウンスがあったころには、専門紙を持った男たちが次々と席を占めていった。挟まれるように、所帯じみた女たちが混じるのは、どこの世界でも同じだった。
 人びとの表情は一様にくたびれていた。
 ペンキで汚れたグレーの作業衣の二人連れは、自分の外見についての関心をまったく失っていたし、乳飲み子を背負った三十代の母親は、電車に乗っている間中一度もわが児を振り向かなかった。
 目の前の予想に熱中していて、みな顔を上げる気配もない。ウィークデーに競艇場に向かっているという事実が、彼らの置かれた状況を物語っていた。
 多磨墓地前という駅で外人女性と学生が降りると、車内の空気はますます同じ色に染まっていった。息苦しさを覚えて窓外に目をやる吉村に、家も樹木も雑草も輝いて見えた。
 秋の陽光を受けて眩しいばかりの風景を背に、座席の男女はみな首うなだれている。クレヨンで描いた子供の画の群像を見るおもいだった。
 改札口を出て右手に向かうと、そのまま競艇場へ通じる有蓋の跨線橋がある。赤青黄緑の順に斜めに張られた目隠しのボードが視界を遮る。
 縦に固定したシャッターのような構造は、その場所から競艇場は見させないという強固な意志そのものだ。
 振り返れば、反対側の街区は縦縞模様に眺められる。傍若無人なやり方でコース側の視界を奪っているが、風と音だけは通り抜け自由である。今しも高速で回転するエンジン音が、ブンブンと唸りをあげて周回を始めたところだった。
 吉村は肺の中に、空気と爆音が混ざり合って侵入してくるのを感じた。煽られるように気持ちが昂ってくる。緩やかな傾斜のスロープを大股で下り、気が付けば競艇場に急ぐ男たちを何人も追い越していた。

 吉村はかつて一度だけ、競艇場に足を運んだことがある。
 八代高校を卒業した翌年、同級生が競艇選手の養成所を修了したというので、付き合いのあった仲間が五人、福岡までお祝いに駆けつけたのだった。
 その際、ちょうど開催中だった競艇場に案内された。
 腰を下ろしたコンクリートの席の冷たさと、エンジン整備について説明する同級生の甲高い声、それに被さる展示航走の爆音のすさまじさが甦ってくる。
 水面の施設から突き出たスタート用の時計の針が、まるで目覚まし時計の時刻合わせをするように意図的な力でまわされ、同時に左手奥から加速をはじめた六艘のボートが横一線になってスタートラインを突っ切っていく光景は、新鮮な驚きをともなって記憶されていた。
 その時の心躍る体験を封印したまま、五年が過ぎた。
 注目していた同級生は、大した結果を残せないまま二年前にやめた。いまは自動車の整備士として働いていると聞いている。できればヒーローとしての彼を囲んで祝杯を挙げたいと願っていたが、夢は夢のままに終わった。
 レーサーの彼だけではなく、ミュージシャンを夢見た男も挫折した。現在家業の理髪店を手伝っていて、ギターの代わりに双子の赤ん坊を抱えているという。
 吉村は初めから郵便局を選んで今日に至っていたから、挫折の苦さとは無縁だった。こころのどこかで安堵する自分を見詰めながら、スタート時点から青年らしい夢を放棄した虚しさを思い、甲斐もない感傷にひたる瞬間があった。
 専門紙を売る女性たちの横を通って入場券売り場に向かう。
 五十円という表示が吉村を驚かせる。缶ジュースの値段より安い入場料は、ほとんど悪徳に近い。理由があってのことだろうが、観客に後ろめたさを感じさせ、競艇そのものにマイナーな印象を与える元凶ではないか。
 物の値段は安ければいいというものではない。野球やサッカーほどではなくても、せめて二百円ぐらいは払わせて、観る者の気後れを忘れさせてやるのが利口なやりかたではないかと思うのだった。
 目に入るすべてが新鮮であったが、とりわけ吉村の記憶に触れてくるものがあった。場内の入口近くに並んでいる数軒の予想屋の囲いだった。青果市場のセリよろしく潰れた声で客の呼び込みを図っていたが、まだ前半のレースということもあって、ほとんど商売になっていないようだった。
「ああ、そうだ」
 吉村は、はっきりと五年前の情景を思い出した。
 それは、あと一周を残してメインレースの大勢が決したとみた瞬間、「でけたァ、でけたァ」と野卑な声を張り上げて自分の店に駆け戻り、大急ぎで予想の出目を書き換えている怪異な男の姿だった。
 膨らんで青黒い顔、濁った白目の中心に底光りする瞳を据えた容貌は、トイレから戻ってきて目撃してしまった吉村を震えあがらせた。
 予想屋は、じろりと一瞥しただけで竦んでしまった若者のことなど忘れ去ったごとく、「ハイ、大穴的中だよ。2-4ウラオモテの二点勝負。本日の大勝負、でけたァ、でけたァ」と声を張り上げている。
 ようやくスタンドから戻ってきた観客は、疑わしげに予想板の数字を眺めながら、前検のスタート練習が良かったとか、エンジンの勝率がどうの、プロペラのピット離れがどうのと後講釈をする男の周りに集まった。
 そのうち「こりゃァ、ご祝儀じゃけん」と数枚の千円札を渡す客が現れると、最終レースの予想を書いた紙切れを奪うように買い求めるのだった。
 たぶん、あの時の客はサクラだったと今にしておもう。
 何十万円も儲けたと吹聴したわりには、込み上げてくる嬉しさの表情がなかったし、洗いざらしの長袖シャツを着た後ろ姿には、その日暮らしの不安な影が膜のように貼り付いていた。
 いくら記憶をまさぐっても、一レースに一万円を投じる器量には見えない。
「そうだよ、サクラだったんだよ」
 声に出してみると、余計に懐かしさが込み上げてくる。
 あの不気味だった予想屋ともども、存在の生々しさが手で触れたように甦る。おぞましくも愛おしい命たち。久美に対して抱く甘美な感情とは別の、もっと根源的な衝動のようなものが彼を捉えている。
 うまく突き止めることはできないが、自分の中のもう一人の自分の声にしたがって、怪しいもの、危ういものに近付きたがっている邪鬼の気配を感じ取っていた。
 第五レースの発売締切り五分前のアナウンスに急かされて、吉村は1枠から二百円ずつ総流しで五点の舟券を買った。新聞の予想欄を目にしたとき、いきなり突き刺さってきた数字の叫びに賭けてみる気になっていた。
 このレースで出るとの啓示があったわけではない。どのレースで出るかは分からないが、必ず<1>が輝くはずだと思い込ませる数字との出合いがあったのである。
 階段状の観覧席は、半分も埋まっていなかった。
 吉村はタバコを吸わない客の間に席を見つけ、そっと腰を下ろした。硬質プラスチックの長椅子は、福岡のコンクリートの客席と同じように冷えた感触を尻に伝えてよこした。
 あちこちに新聞紙が敷かれたままになっているのは、席の確保というよりも冷えを防ぐための方策かもしれなかった。
 突然、背後でバタバタと発売窓口の戸を閉じる音がした。お金と舟券をやり取りするための狭い空間を、締切り時刻と同時に落とし戸で閉じていくのだ。いずれ自動券売機に換わる日が来るであろうが、残された時を惜しむように乾いた音を立てる手作業の響きが、吉村の五感に好ましい波動を送ってきた。
 正面に見下ろすコースの左端にボートが姿を現した。低いエンジン音を息つくように整えながら、スタート位置を取るための回転を始めたところだった。
 第一コースから第六コースまで順に並んで動き出したモーターボートが、ブイを回りながら好きなコースを得ようと狙っているのが分かる。吉村は白地に1番のゼッケンを着けた選手が、近寄る舟を警戒しながら最内を死守するのを固唾を呑んで見守った。
 外側を勢いつけて回る舟の波を受けて、漂い出そうな怖さがある。その印象は共通だったらしく、吉村の周囲にざわめきが起こった。
「おい、池田は流されるんじゃないか」
 新聞を見ると三角印の選手で、貫禄のある本命選手の圧力に屈して最内を明け渡してしまうのではないかと危惧を感じた。
 しかしスタート十五秒前になり時計の針が勢いよく回り始めると、進入を開始した六艇はいっせいに唸りをあげて飛び出して行き、スタート時刻にわずか0・7秒ほどの誤差でフライングを回避しながら寸秒単位の争いに突入していくのだった。
(よし、池田、イケ!)
 吉村は腹の中で気合を込めた。
 真ん中から飛び出した本命のボートが、わずかに機先を制したかに見えたが、第一マークを回るとき内に切れ込んだ戦法が裏目に出て、三号艇、五号艇ともつれて最後方のターンとなった。
 その間に一号艇の池田選手は最内をすり抜け、直線で拝むように身を倒してスピードを上げ、二位に十メートルの差をつけている。一号艇の後には大外を無欲で回った六号艇が付け、滑らかなコースを選んでスムーズにターンする。
 こうなると、よほどのことがない限り順位は決まったようなものだ。
 1-6、1-6と舟券を握り締めて吉村は興奮する。正面の掲示板には、一番から六番までの連単舟券の売り上げ票数が表示されている。一番人気の三万票に比べわずか千票ほどしか売れていない。六号艇は人気薄で、この組み合わせで決まると配当金が高そうだった。
 コースに近い鉄柵から身を乗り出して叫ぶものがいる。
「そのままァ、そのままァ」
 吉村の胸中そのままだった。
 二周目、最内を猛然と追い上げる四号艇が六号艇に追いついたと見えたときには、思わず悲鳴に近い声を上げてしまったが、一方はすでに最終ターンに向かって減速をしているところであり、一方はスピードの頂点で前の二艇の波を受ける位置取りで、終わってみればその差はさらに開いていたのだった。
 六艇がゴールラインを通過すると、間髪を入れずに結果と配当金が表示される。1-6、五千五百三十円。たった千円の投資で一万円の儲けが出たのだ。ビギナーズラックとはこのことか。勝負の神様は実に陰険な性格の持ち主で、最初に大喜びさせておいてじわりじわりと苛めにかかるのだ。

 中央競馬などと違って、とくに昼休み時間は設けられていなかった。
 番組はほぼ三十分おきに進められていく。次の第六レースは十二時五十九分、第七レースは十三時二十九分のスタート時刻となっている。吉村は内心の嬉しさを押し殺して、二階席の払い戻し機の前に立った。機械は三台並んでいるが、彼のほかには誰も取替えに来ていない。意外な感じがしたが、それだけ当たった人が少ないのかもしれなかった。
 一万円を財布に収め、階段を降りて一階の通路に立った。来て早々のレース的中となって、喜びに足下がふわついた。
 吉村は先刻舟券を買った窓口を探した。このあたりと見当をつけたが、確信が持てない。急いでいたせいか売り子の顔を覚えていないのだ。
 勝負はツキに乗るべきだ。当たりをもたらしてくれた窓口を忘れるなど、もってのほかだ。二つ並んだ開口部のどちらかなのだが、左側は欲の深そうな中年女、右側は眼鏡をかけた主婦タイプ、吉村は窓口を前に立ち往生していた。
 場内のテレビが締切り四分前を表示した。吉村は逡巡ののち眼鏡の女性の窓口に進んでいった。ところが辿り着く寸前に人影がすっとよぎった。目の前に髪の乱れた五十男の背中があった。
 一瞬イヤな予感が走った。
 とっさに左へ逸れて、中年女の窓口に立った。四角い顔に赤い口紅が目立つその女性は、彼の差し出す投票券をひったくるように取り上げ、顔も見ずに二千円ですと告げた。
 第六レースは無印を頭に2-3と来て、吉村の買い目は見事に外れた。<1>にこだわり、欲をかいてウラ目も押さえたから、彼の喪失感は軽くもなかった。
「まあ、いいさ」
 呟きながら立ち上がった。時計を見ると一時を過ぎていた。
 さすがに空腹を覚えて、売店に向かった。赤飯二百五十円、揚げ竹輪百円、串シューマイ百二十円を買い求め、二階スタンドの踊り場で紙コップのホットコーヒーを買うべく階段を登りかけた。
 その時、特別席と表示された入口へ急ぐ男の二人連れを見かけて、吉村は足を止めた。最初に注意を惹いたのは年長の方の男の服装だった。カシミヤらしい紺のブレザーに、淡いベージュのスラックスを穿いている。わずかに撓んだ裾が茶系の柔らかそうな革の靴に被さっている。その微妙な重なり具合に、なみなみならぬおしゃれの意図が感じられた。
 一方、肩を並べて歩くのは、まだ十六、七歳にしか見えない少年だった。調髪したてのおかっぱ頭があどけない。剃りあげた襟足のラインが清潔感を漂わせる。横顔にみる秀でた輪郭は、とくに耳から鼻梁、目尻の切り口まで人の目に訴えるものがある。やや上に反った睫毛の長さが、整いすぎた顔に優美さを加えていた。
 じっと視線を注ぐ吉村の気配を感じたのか、少年がこちらを振り向いた。
 つられて年長の男もこちらに視線を泳がせた。吉村のところまでは視線が及ばなかったようだ。
 だが、吉村の方は気付いていた。彼の見知った人だった。書留の配達などで何度か言葉を交わしたことのある、芸能プロダクションの社長だった。
 たいがいの場合、事務員との受け渡しで済むのだが、書留が大量に到着するときなど、それとなく様子を見に来る。一配達員にも丁寧な応対をする紳士で、たまに事務員に指示して所属タレントの五枚組みテレホンカードをくれたりすることもあった。
「ほんとにご苦労さま・・・・」
 如才ない言葉で送り出されて悪い気がするはずはない。紛れもない紳士との印象が頭の中に定着している。
 ただ、吉村の記憶として一番強く残っているのは、掌や指の腹のぽってりと膨らんだ肉感だった。直接触れたわけでもないのに、長く白い指にあってはならない違和感がいつまでも気に掛かっていた。
 
 一瞬ののち、年長の男の手が少年の肩に回されていた。
 気付かれまいとする吉村の意識がそれ以上の凝視を阻んでいたが、視野の端で鷹が小鳥を押さえ込むのを見た。長い指に続く手の甲が筋張るほどの意志をみせて、少年の心も身体も鷲掴みにしている。ただならぬ関係を想像して、吉村の胸も高鳴った。
 上の空で買った舟券は、三レース続けてハズレた。それでも1からの買い目は変えなかったので、第十レースで再び1-6と入り二千四百八十円の配当を得た。大した儲けにはならなかったが、気分は良かった。
 混まないうちに帰ろうかとも考えたが、一階の売店で大判焼きを買いスタンドに戻った。次のレースで負け、結局腰を上げられなくなった。最終第十二レースは十六時二十五分の発走予定だった。
 秋の陽は落ち、すでに暮色が漂いはじめている。
 正面の電光掲示板の電飾がひときわ鮮やかだ。<12レース、多摩川競艇>の文字の下に、1から6の数字が横に並び、それぞれの列の下方へ連勝の目とオッズが表示されている。
 わずかに風が出てきたようだ。水面がさっと一掃きされる。水に映ったオッズの明かりが、水彩画の筆使いのようにジグザグに滲んだ。
 左端の掲示板に<締切り二分前>の文字が点灯された。まもなく最終レースだった。未だ残っている観客は皆その明かりを見ているはずだ。
 あと二分、最終レース・・・・。一日の終わりを思うか、人生のラストを感じるか。それとも・・・・。人さまざまの感慨があるはずだった。
(あの二人は、まだ特別席にいるのだろうか?)
 肩を組み、胴に手を回して少年を引きつける社長の姿が目に浮かんだ。
 彼らはほとんどの客が帰ったあとからゲートを出て、外車を停めた駐車場に向かうだろう。ミュージックテープをかけ、深々とシートに身を預けて緩やかに走り出す。低いエンジン音が心地好く身体を揺すり、二人だけに許された言葉で会話を交わすに違いない。
 それも人生、これも人生。
 きょう一日、大それたことは起こらなかったが、なんとも味のある一日だったとおもう。
 低いエンジンの音がしだいに高まってくる。瞬く間に爆音に変わり、目の前を六艇がいっせいによぎって行った。
(それ、いけ!)
 吉村は一団となった舟の塊に声をかけた。
 もう一つ一つの艇ではなく、選手もボートもごっちゃになった生き物として応援していた。



     (第三話〉

 

(2007/01/18より再掲)
 
 

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6 コメント

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競艇レース (ウォーク更家)
2023-12-16 20:52:24
多摩川競艇、詳細なレース展開の描写で光景が蘇り、懐かしく読ませていただきました。

そうか、予想屋の客がサクラということもあるんですね、なるほど。

胴に手を回して少年を引きつける社長、競艇場には色々な人生模様があるんですね。
返信する
Unknown (yamasa)
2023-12-16 22:23:53
賭け事に惹かれる自分の性質に。
一か八かの世界。。。
誰しもが持っているギャンブル性ですね。
最終レースに1日をかける思いが伝わってきます。。。(*^▽^*)
返信する
多摩川のほとりには (tadaox)
2023-12-16 22:35:14
(ウォーク更家)様、こんばんは。
以前、五街道ウォーキングで多摩川の辺りにも行っていましたよね。
場内を覗いたかどうか忘れましたが、外からでもレースの進行がわかる独特の場所ですよね、
サクラはどこの世界にも居ますね、
気づかない客もいるから商売になっているんでしょうが。
芸能関係者には一般人と違った人生模様があるようですよ。
いつもコメントをいただきありがとぅございます。
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賭け事 (tadaox)
2023-12-16 22:54:45
(yamasa)さん、ありがとぅございます。
賭け事の魔力と言いますが、これとの接し方で人生をフイにする人もいますね。
最終レースの哀愁に注目していただき、さすがと思いました。
ぐずぐずと未練を追う。
人間のサガが波と灯りに滲む夕暮れの景色が書けていましたでしょうか。
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なんとタイムリーな・・・ (koji)
2023-12-17 11:04:36
過去の作品なのに、ジャニーズ問題を彷彿とさせるワンシーンです。
返信する
気づきましたね (tadaox)
2023-12-17 21:14:53
(koji)さん、まさかこのようなシーンが後から問題になるとは思いもしませんでした。
幾つかの記憶を重ねて作った虚構ではありますが、細片を思い出すとリアルな部分も多く芸能界にはこうした隠微な世界が存在するのかもしれません。
図らずも白日の下になったジャニーズ問題、社会を覆すインパクトがありますね。
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