(長谷良子短編集『朝会うあの場所で』を読む)
<逝去の直前に珠玉の9篇を編む>
同人雑誌『凱』の仲間だった長谷良子さんが、本年1月27日に逝去された。
知らせとともに、標記の短編集が送られてきた。
<あとがき>の日付が一か月前の昨年12月になっているので、少し前から何かを予感し作品のまとめに入っていたものと思われる。
ぼくの場合ほぼ10年前に同人誌をやめているので、今回の短編集に収められた9篇のうち大半は未知の作品である。
50~100枚の短編小説が主体で、いずれも市井の生活に起こる境遇や感情の揺らぎを見つめ、それらを主人公の心に投影し表現したものである。
例えば本のタイトルとなった『朝会うあの場所で』は、「文學界」同人雑誌評で次のように評されている。
<片親ずつをかかえて結婚にふみきれない美術志望の三十歳を越える男女が、男はワゴン車、女は自転車のペダルから片足をワゴン車の前輪に乗せて素早く唇を合わせる。毎日同じ場所である。それぞれの生活の側面を描いて、さりげない中に味のある短篇に仕立てている>
この作品には、毎日ノラ猫に餌と水をやりに来る老女が登場する。
自転車の女性と束の間の口づけを交わしたワゴン車の男は、老女の餌やりを見ながら煙草を一服する。
そして、いざ出勤とエンジンを始動させるのだが、その途端によろよろと車道に出てきた老女に進路を塞がれる。
おまけに足でもくじいたのか、道路の真ん中でしゃがみこんでしまう。
「どうしたんですか?」
遅刻を懸念しながら、男は老女を自宅まで送り届ける破目になる。
男は、義手や義足を作る会社で責任のある部署についている。
数日前から急ぎの仕事が入っているので、本当は老女にかかわっている暇はないのだ。
しかし、帰ろうとすると「あっ、一つだけお願い。湿布をするのだけ手伝ってちょうだい」と引き止められ、小麦粉と酢をボールに入れてかき混ぜ、ネルに塗って延ばして貼るところまで付き合わされる。
湿布薬が簡単に手に入る現代と違って、昭和を生きてきた人間にはツンと鼻をつく臭いとともに情景のリアルさが迫って来る。
この作品の佳さは、否応なしにかかわってくる老女を配した点にある。
医薬品や化粧品の梱包と発送業務に携わるパート従業員の女との、なかなか結婚できない家庭事情を正面に置きながら、きっぱりと突き放せない夾雑物のような老女の存在が生のかたちとして示される。
日常生活には、時として予期しない出来事が紛れ込んでくる。
例えば、誰も見ていないと思って交わしていた男女の口づけを、老女がある思いを持って見ていたことを吐露するくだりがある。
<どんな事情か知らないけれど、好きだったら一緒に暮らしたら? なんとかなる、というよりも、なんとかするのよ。わたしは、好きだった人を待てなかったの・・・・。戦時中のことだったから、と自分に言い訳しながら生きてきたけれど・・・・、口づけもできないで、いっとき、ずいぶん後悔したわ>
人生とは、そうした出来事につき合いながら、粘り強く修復への努力をしつづける時間の累積なのかもしれない。
決して大それた事件や劇的な展開は登場しないが、良質な小説の醍醐味を充分に味わわせてもらった。
他に、白い装束で書店の前に立ち、ぶつぶつと読経しながら喜捨を乞う老人と青年の交流を描く『いろはにほへと』では、壊れたラジオを直して老人に喜ばれる推移が、ほのぼのとした人への愛情を思い起こさせてくれる。
また、浅間山の裾野にもとめた小さな山小屋で夏を過ごしながら、毎日近くの畑で作業する農婦と次第に打ち解けていく『夏、山の見える村で』の女性は、ブルーの布に総柄のキルティングをほどこした手作りバッグをプレゼントしたことで、自他の内面を紡ぎ出すきっかけとしている。
『白い顔』、『残像』、『声』、『石榴』、『螢』など、いずれも見過ごせない人生の機微をとらえた作品だが、昨年当ブログで書評を書かせてもらった『その年の秋』は、やはり長谷さんが残した白眉の作だと思っている。
あとがきの中で、『その年の秋』は、朝日新聞1993年1月5日付夕刊社会面の記事に想を得たものであると記している。全編を読み通すと、あらためて構想力の確かさにも驚かされる。
一方、『残像』について、モデルに近い人物には作者が深い哀惜を抱いていたものであり、十全ではないが作品にまとめたと述べている。
どのような場面でも穏やかで、真摯だった長谷良子さんの面影を偲びつつ、また一人本気で文学と向き合ってきた作家が去ったことを実感している。
晩年まで痩身で若々しかった長谷さんが、享年82歳であったと知り、内心びっくりししている。
追悼というにはそぐわない静かなる熱気が今も作品集から立ちのぼり、読む者を力づけてくれる。
この本が広範に流通しない非売品であるため、ただただ厳粛な気持ちで故人の作品に対面させていただいた。
「長谷さん、あなたの作品をしっかり読ませてもらいましたよ」
どこへ行かれても、あなたの思いは空の下にある人々の胸に降りつづています。
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長谷さんの小説は『凱』誌上で時折読んでいましたがそのうちいつの間にか読まなくなっていました。2年くらい前でしたか、窪庭さんに長谷さんの新作『その年の秋』を読んだかと教えられ久しぶりに長谷さんの世界にどっぷり浸かりました。それは意識を思いのままに誘導され引きずり回される感覚である人物の生の軌跡を体験したようなものでした。長谷さんはいつの間にかそういう境地に到達していたのでした。
その長谷良子さんがお亡くなりになっていたことをこのブログではじめて知りました。
長谷さんのプライベートについては何も知りませんがそれにしても幸せな生涯だったのだろうなと想像しています。
商品としての小説ではなく、書きたい小説だけを書きたい用に書いて・・・その上亡くなって1ヵ月後には生涯の作品を纏めた本が出来上がるとは、何という見事な人生であることか。そして窪庭さんにこんな素敵な顕彰の文章で送ってもらえるとは。
私は長谷川良子さんの作品を存じ上げないので
本を探しましたが
やはり非売品なのですね
逝去されたのはとても残念ですが
故人のごく親しい方だけが
小説を読めて 素晴らしさを分かち合えるような
なんと羨ましい人生だななんて
私が言うと生意気かもしれませんが・・・
作品がしっかり心に残り
その中で生き続けられるのですから
それとtadaoxさまから贈られた
暖かいお言葉も
長谷川良子さんは
とても喜んでらっしゃるのではないでしょうか
また、『その年の秋』を評して、「それは意識を思いのまま誘導され引きずり回される感覚である人物の生の軌跡を体験したようなものでした・・・・」に、感慨一入です。
文章の特徴(文体というのかな)も、内面の息継ぎを表しているようでした。
このような評言をもらって、長谷さんも安らかにお休みのことと思います。
ありがとうございました。
今後何らかの展開があれば嬉しいのですが・・・・。
aquaさんの、優しい心遣いに感謝します。
コメントありがとうございました。