マドンナが、その日のおやつのリクエストについて説明していた。
「・・・・私は、父を喜ばせたくて、背中を向けたままミルクレープを運びました。
ミルクレープには、一本だけ、小さなろうそくを立ててお祝いしました。
そのミルクレープの味が忘れられません。自分で作って言うのもなんですが、本当においしかったのです。
それに、なによりも嬉しかったのは、父が喜んでくれたことです。
あのミルクレープを、旅立つ前に、もう一度食べたいです」
<そこでマドンナは一礼すると、読んでいたリクエスト用紙を折りたたんでメイド服のエプロンにそっと戻した。
すると、
「覚えています」
どこからか、懐かしい声がする。それは、紛れもなく父の声だった。でも、どうして? 父が、ライオンの家にいるなんて、ありえない。おかしいな、そう思いながらゆっくり振り向くと、今度は、本物の父が窓辺の椅子に座っている。>
「しーちゃん」
私に気づいた父が、驚いた表情をする。
「雫さん、目を覚ましましたね?」
落ち着いた声で、マドンナが言った。
・・・・いくら、ちゃんとした声を出そうとしても、かすかに、囁くような声しか出せない。おなかに力が入らないのだ。
「雫さん、まだちゃんと生きてますよ、お父様が会いに来てくださいました」
私の目をじっと見ながら、マドンナがゆっくりと言葉をつなぐ。それはまさに、私が今、聞きたかったことだった。
「な、なぜ?」
すると父は、私の幼馴染の名前をあげ、彼女が教えてくれたんだ、と微笑んだ。
父が近づいてきて、私の手にそっと触れる。それから、さりげなく私の目やにを取ってくれた。
「しーちゃん、がんばったな」父の言葉に、
「本当に、雫さん、よく頑張りました」マドンナが声を重ねる。
(意識の底で、ずっと引きずってきた父との再会は、雫さんの旅立ちを、どれほど楽なものにしたことか・・・・)
思いがけないことは、まだ続いた。
「本日のおやつの時間に振る舞われた、ミルクレープをお持ちしました」
マドンナが朗らかな声で言う。
そっか、私がさっきおやつの間にいたのは、幻想だったのか。今でもまだ、どっちが現実で、どっちがそうじゃないのか曖昧だ。
雫さんは、夢を見ていたのだ。夢の中で、おやつの時間を過ごしていたのに、今、目の前にミルクレープの現物がある。
ただ、そのミルクレープに口をつけることは、もう不可能だった。
すると、父が言った。
「実は今日、しーちゃんにどうしても会いたい、っていう人を連れてきてるんだ」
「お、く、さ、ん?」
父は、黙ったまま首を横に振って否定する。
「娘だよ。もうすぐ中学生になるよ。・・・・娘に、実は君にはお姉ちゃんがいるんだよ、って話したら、会いたい、会いたい、お姉ちゃんに会いたい、ってきかなくてってさ」
私に、妹がいたの!
あ、い、た、い、と父にもわかるように口を動かしてみる。妹という言葉を聞いた瞬間から、心がぶるぶる震えていた。とんでもないサプライズだ。
「わかった。今、車の中で待ってるから、連れてくるよ。
しーちゃん、このまま横になって休んでて」
妹は、梢という名前だった。
梢ちゃんは、雫さんがリクエストして、マドンナが運んできたミルクレープを、お父さんと一緒に食べていた。
雫さんは、<・・・・そのお菓子を見ているだけで、心がふわりと柔らかくなる。何気ない日常の間にキラキラした甘い思い出が挟み込まれていて、それはまさしく私の人生を象徴するようなお菓子に思えた。ミルクレープを食べている父と梢ちゃんのそばにいるだけで幸せだった。父と共に過ごした、たくさんのことを思い出していた。
「お、い、し、い?」
ゆっくりと梢ちゃんにたずねると、梢ちゃんは唇をきゅっと結んで、こくんと頷く。・・・・私は梢ちゃんに会えて、心の底から幸せだった。人生のラストボーナスだ。>
ここへきて、物語は「ライオンの家」のおやつに収斂していく。
雫さんは、お父さんにも会えたし、妹の梢ちゃんとも時間を共にすることができた。
そのうえ、あの聞き分けのない作詞家の「先生」に、驚くべき変化があったことを知ることになる。
そのきっかけとなったのも、おやつだった。
「学生時代に知り合いに頼まれて詞を書いた歌謡曲がいきなり大ヒットして、そこからはずっと先生と呼ばれる人生を歩んできた。自分の人生には逆境などひとつもなく、常に追い風が吹いていた」
先生だ。先生が書いた文章だ。マドンナは続けた。
「そんな自分が、いきなり癌になった。青天の霹靂だ。病気が治らない段階のものだとわかったとたん、周りにいた人間が蜘蛛の子を散らすように離れていった」
「それは、自分のせいです」
私は言った。今まで、そんなことをしたことは一度もない。けれど、勝手に口が動いていた。
マドンナが、私を見て、大きく頷く。マドンナの朗読を中断してしまったことに気づいて、ごめんなさい、と謝った。・・・・
「自分に癌が見つかった時、俺はあろうことか女房のせいにした。お前が、遺産目当てで俺の食事に毒でも盛ってたんだろう。軽い冗談のつもりだったが、女房はその次の日、離婚届を置いて家を出た」
その後、死期が近づいた先生のもとへ、別れた奥さんが好物のレーズンサンドを持って見舞いに来た。
だが、それを突き返したのだ。
先生が、怒鳴り声をあげていたのは、その時のことだ。
(無残な自分に気づいても、素直に謝れないほど、先生は動揺していたのだろうか)
「・・・・唯一、俺を最後まで見捨てずにいてくれたのが、女房だったんだと後から分かった」
<女房には、詫びても詫びきれない。
本当に、すまないことをしたと反省している。
・・・・先生の目から、小石のような涙がぼろぼろこぼれた。
マドンナの言う通りで、人は死の直前まで、変わるチャンスがある。>
「雫さんの容体、どうですか」
廊下で話している声がはっきり聞こえる。・・・・
今のは、タヒチ君の声に違いなかった。
「もう、ここ数日ずっとこんな感じ。出血して以来、意識はほとんどないんだけど、時々目を開けて誰かと話してるの」
「そうですか。あっちとこっちを、行ったり来たりしているんですかね。お袋の時も、最期そうだったから、なんとなくわかります」
「きっとそうね。でも、最後まで耳は聞こえているっていうから、話しかけてあげて」
マドンナは言った。
本当に、マドンナの言う通りだ。私には、ふたりの会話がちゃんと聞こえている。
マドンナは、続けた。
「ろうそくって、消える瞬間がいちばん美しく感じるんだけど、人もそうなのよね。雫さんを見ていると、しみじみ、そう思うわ」
それからタヒチ君が私のそばにやって来て、私に話しかけてくれた。
「あの日の海、きれいやったなぁ」
雫ちゃんが六花と後ろの席に座ってて、なんだか家族みたいでええなー、って思ってたんよ。・・・・
それから、タヒチ君は、私の頬に自分のほっぺたをくっつけた。タヒチ君の匂いが懐かしかった。
「ありがとう。いつかきっとまた会える気がするから、お別れの言葉は言わないでおくよ」
うん、私も心からそう思う。私も、タヒチ君にはまたどこかで形を変えて会える気がする。だからこれは、お別れじゃない。
(雫さんは、みんなに笑顔を残して、ろうそくの火が消えるように、ふっと消えた)
雫さんの最期を見届けて、そろそろこの稿を終わることにする。
実は、この後、30ページ余にわたって、雫さんのお父さん側から雫さんとのエピソードを語ったり、雫さんと接していたマドンナの思いをつづったり、実にていねいなフォローが続く。
雫さんとタヒチ君、それに六花にまつわる挿話も、できることなら紹介したいのだが、もはやストーリーの完結の後では、当初の趣旨に合わない。
ぼくは、終章を見ずに、提供されるビューポイントやおやつを味わった。
そして、作者の目指したホスピスというユートピアに共感することもできた。
たぶん、最後を見ずに書く今回の試みは、そう見当外れではなかったと思っている。
むしろ、結末まで知ってしまったら、窓から見える景色にここまで感動することはなかったかもしれない。
ここまでお付き合いいただいた皆様には、心からお礼を申し上げたい。
「ありがとうございました」
(おわり)
心から楽しませて頂きました~~
糸さんが物語を通して示してくれた夢のようなホスピスの在り方に心からの拍手を送りたいと思います。
小川糸さんをもっと知りたくなって、彼女を広く世に知らしめた「ツバキ文具店」と、この「ライオンのおやつ」図書館から借りてきました~~
読み終わって、この作者の文章の細やかさについて、強く印象付けられました。
引用の際に、ただ移すという作業だけでは済まないのです。
例えば述語の使い方に、思いやりの深さが現れていて、何度も立ち止まらないと、引用すらおぼつかないことがあるのです。
勉強になりました。挑戦してみて、よかったと思いました。
感謝します。
多分たくさんの人が読まれて似たような気持になられているのではないでしょうか。
お疲れさまでした。
おかげさまで、「ライオンのおやつ」に巡り合い、糸さんの文章の息遣いを学ぶことができました。
プロというのは、こんなところにまで気を配っているんだという驚きです。
本当に感謝しています。
自分の終末について、じっくりと考えるよい機会になりました。
ありがとうございました。
読み終わって、作者の目指したホスピスというユートピアのイメージが湧いてきました。
私も、消える瞬間に輝ける様に、自身の人生のラストボーナス、楽しみにすることにしました。