ICUの待合室にあわただしく看護婦が入って来たのは、さらに三十分ほど過ぎた頃だった。
「先生がお呼びです。急いで来てください」
廊下からエアシャワーを潜って別室に入り、面会者用の上衣を身に着けて集中治療室に入った。
何床ものベッドを囲んだカーテン仕切りの中に、呻吟している患者がいるはずだった。その一つ、壁際のベッドの横でマスクの上から目だけを出した半袖姿の医師が正人を待ち構えていた。
「ご家族の方ですね。いろいろ改善策を試みていますが、今日になって脳血管攣縮が著しく、率直に言って悪い方向へ向かっています。できることなら近親の方にお集まりいただいた方がよろしいかと思います」
若い医師は、正人の目をまっすぐに見て状況を告げた。
「え? そんなに悪いんですか」
「はじめに運び込まれたときから再出血による意識障害がありまして、頭部CTスキャンでクモ膜下腔に高吸収領域が認められました。・・・・このペンタゴンの明るい部分がそうです。すでに脳浮腫による脳圧の亢進で視床下部が機能不全に陥っています」
フィルムを見せながら、正確を期すためか医学用語を多用しての説明が続いた。それらすべてが理解できたわけではないが、有無を言わせぬ説得力が正人を厳粛な気持ちに導いた。
「助からないんですか・・・・」
「力は尽くしますが、この状況ではかなり危険かと・・・・」
「なんとか助けてください」
「ご親族にもご連絡をお取りいただくようお願いします」
穏やかだが起こりつつあることの本質は逸らさない言い方だった。
正人が神妙になったのを見て、医師は背後のカーテンを引いた。医師の体越しに顔の一部が見えた。
顎のあたりまで管とガーゼに覆われて、急には姉と確認できなかった。
恐るおそる覗き込み、姉の面影を探した。家を出て行った夏休みの午後、追いすがる正人をたしなめ抱きしめて去ったふくよかな冴子は、そこにいなかった。
視線をずらすと、口や鼻だけでなく伸びきった体に何本もの管が繋がれていて、その一本は下腹部からも延びている。
腕は暴れても点滴が外れないようにベッドに固定され、頭部と胸部には電極が貼り付けられているらしく、そこから延びたコードが周辺の機器に繋がっていた。
「姉さん・・・・」
呼びかけたが、声は正人の胸に籠もった。
やっとめぐり合えた感慨が、喜びとも悲しみともつかない空虚さを伴ってこみ上げてきた。
(姉さん、死なないで・・・・)
生死の境をさまよっている冴子に、ナマの言葉を掛けることが憚られた。
点滴の管がない方の手を探って、掌を重ねた。
正人の記憶にある手とは感触が違っていた。甲を包む皮膚の内部にみなぎっていたふっくらしたものが失われ、骨の形が直に正人の掌に当たった。
正人はベッドの横に跪き、両手で握りなおして祈る姿勢をとった。
医師がその場を離れる気配がして、ひととき姉と弟二人だけの空間が広がった。
何を思い、何を伝えたというより、わずかな時間を共にいることで離れ離れになっていた家族の空白を埋めようとしていたのだった。
やがて、気がかりを残して正人はICUを離れた。
姉の所在を確かめてから両親に連絡しようとの判断が果たして正しかったかどうか、迷いがたちまち後悔となって正人を苦しめた。
ともかく、緊急に連絡しなければならない。医師に強く促されたこともあって、やっと実家に電話することにした。
母親が受話器を取った。
あわてるばかりで何の判断もできないので、父親に代わらせた。
事情は飲み込んだようだが、頑なさは少しも変わっていなかった。
「姉さんは、死にそうなんだ。なんだかんだ言ってないで、すぐに来てくれよ」
病院の名前と電話番号を告げて、後は父親の意思に委ねるしかなかった。
(おそらく間に合わないだろうな・・・・)
電話を入れた当人が予断することではなかったが、いまに至るまでの家族の行動から考えて、神様が死に目に会わせてくれる見込みはまずないだろうというのが正人の直感だった。
困難な夜に備えて、正人は院内の売店でパンと牛乳を買った。
人気のない長椅子に腰をかけ、そこばかりが明るい売店の内部を呆然と眺めていた。
過ぎ去った時間が、空気の帯となって目の前を流れた。ガラス張りの陳列ケースを透かし見ながら、買ったばかりの菓子パンをむさぼった。
突然、正人を呼び出す館内放送が頭上を流れた。すぐに集中治療室に戻るようにとの指示だった。
「容態が急変しました」
正人の顔を見るなり、ICUの入口で待っていた看護婦が緊迫した口調で事態を告げた。
促されて再び滅菌のための部屋を通り、姉のベッドに駆けつけた。
先ほどの医師が、瞳孔を覗き込んでいた。機器の画面の電気信号はすでに途絶えていた。
「お姉さまは最後まで頑張られましたが、たった今ご臨終を迎えられました」
「えっ?」
「お気の毒です」
感情の籠もった応答のように受け止めたが、医師には使い慣れた言葉の一つだったようだ。
「どうも・・・・」
「あとの事は担当のナースがご説明いたします」
カルテに死亡時刻でも記入したのか、ファイルを看護婦に渡して引き上げていった。
案内された事務室で、職員から今後の段取りを指示された。
再度家に電話をすると、案の定父親はまだぐずぐずしていた。
「死んだよォ、姉さん死んじまったよォ・・・・」
正人は電話口で声を振り絞った。「明日、ありったけの金を持ってきてくれよ。今夜は俺が姉さんに付き添ってるから、明日は必ず来てくれよな」
もう、父親の対応など構っていられなかった。懇願するというよりも、最後通牒を突きつけて、それで駄目なら勝手にしろと突き放す自棄の思いが滲んでいた。
さすがに電話口の向こうで狼狽する父親の様子が窺えたが、正人には相手を気遣う余裕は残っていなかった。
ナース・センターに戻ると、冴子の遺体はすでに地下の霊安室に移されたとのことだった。
生と死を厳然と区別する病院のありようを、否応なく知らされた。病室は生者のもの、死者が長く留まれる場所ではないのだ。
正人への応対も、それまでの医師や看護婦に代わって病院職員の手に移っている。
職員に付き添われて遺体が安置された部屋に向かうと、先刻示唆されたとおり病院出入りの葬儀社から男の社員がやってきていて、仮通夜に必要な作業を粛々と進めていた。
冷えた畳の上に一段高くなった簡易ベッドが置かれ、冴子はひっそりと白布に覆われていた。
「ご愁傷様です。ご遺体は整えてありますので、どうぞご覧ください」
年のころ三十歳前後と思われる男が深々と頭を下げ、白い手袋の手で顔の辺りのナプキンを丁寧に持ち上げた。
「きれいなお顔をしてらっしゃいます」
誰が化粧を施したのか、髪も梳られ、眉も描かれ、仄かに紅を掃いた頬がふっくらと膨らんで安らかな表情に見えた。
田舎で死んだ爺の場合は親族の手で湯灌にされたが、今回はすべて葬儀社の社員によって死出の装いが完了していたのだ。
あらゆることに経験のない正人では手に余ると見た病院側が、ここまでの段取りを進めておいてくれたのだった。
「ありがとうございます。おそらく明日には親が来ると思いますので、どうぞよろしくお願いします」
確信はなかったが、姉の死顔に語りかけるようにうなずいて見せた。
事務的なやり取りを済ませて、葬儀社の社員が帰っていった。
明朝また来ると言い置いていったのは、火葬など後の手はずを相談する用事もあり、同時に親の到着を待って支払いの請求をする必要もあったからであろう。
人が居なくなって、緊張が途切れたようだ。
膝詰めで遺体の側にいると、冷え切った部屋の空気が正人の体をしんしんと締め上げてきた。
背後には小さな電気ストーブが置かれていたが、よほど熱源に近づかなければ人の体を温めるほどの威力はない。
正人自身が冷えていくように、姉の体もいま時間の経過とともに冷たさを増しているのだろうと、真っ白のシーツで覆われた遺体の丈を目測した。
葬儀社の社員が去り際に戻しておいた顔の上の白布をめくってみた。
整えられた冴子の顔は美しかった。面影を残したやさしさの上に、暮らしの中で重ねた皮膚の厚みが載っていた。
つくづくと眺めていると、姉がたどった歳月が浮かび上がってくる。
駆け落ちをした前後の悦びと不安、夫と信じた男への不信、急変する運命への恐怖と絶望。そして自棄と諦めの日々・・・・。
強烈なスポットライトを浴びて、姉は再生したのだろうか。見せ掛けの愛情を信じたふりをして、自らを慰めていたのではないのか。
頬に触れると指先に異質の冷たさが感じられた。
正人の目の前で静かに進行しつつある生の全き終焉が、まもなく完了する合図のような気がした。
(姉さん、いよいよお別れだね。・・・・きっと敵は取ってあげるからね)
正人は唇を嚙んで、密かな決意を飲み下した。
常識がまだ頭の中で靄のように抵抗していたが、それを振り払うように身を乗り出して遺体に掛けられたシーツを持ち上げた。
着せられた茜色のガウンをはだけると、白く透き通り始めた胸元が外へ開くように割れていた。
冴子は彩華としてその胸を客席にアピールしたのだろう。
外側へ向けて傾いだ乳首が、たくさんの視線の糸に結ばれ四方へ強く引かれている様子にみえた。
臍の窪みが傷のように陰影を濃くしていた。
ハッとして一瞬の動悸を覚えたが、強い決意のもと遺体の下腹部に視線をずらした。
死んでなお艶を失わない柔毛が影のように丘を覆っていた。黒々とした直毛ではなく、ちりちりと縮れた紅毛混じりの密生が傾斜する坂に張り付いていた。
日常的に刈りそろえていたのだろうか、芝生のプレートを一枚そっと載せたような慎ましさで、彩華として生きた証を残していた。
「姉さん・・・・」
冴子であるとともに、多くの男たちの欲望に曝され囃された彩華の命がそこに潜んでいた。
正人は衝き動かされるように手を伸ばした。掌に触れる弾力が冴子への憐憫を跳ね除け、萌え出る命のような温もりを伝えてきた。
(働かせるだけ働かせて、誰も見舞いにも来なかったよ)
非情な組織とそこに蠢く男たちの所業に憤慨を覚えたが、冴子に代わって成敗するほどの憎しみは掻き立てられなかった。
姉は彩華としての生き方に、束の間の安らぎを見出したこともあったに違いない。
そう思うと、ストリッパーとして終えた短い生涯を安易に否定する気にはなれなかった。
(・・・・だけど、あの男だけは許さないよ)
正人はガウンの襟を掻きあわせ、シーツを元通りに戻しながら語りかけていた。あの男の裏切りは何をもってしても償えるものではないと深く心に刻んだ。
翌日、叔父に連れられてやってきた両親ともども病院、葬儀社と打ち合わせを済ませ、冴子の火葬の手はずを整えた。
冬場は死者の数が多いのか空きを見つけるのに手間取ったが、葬儀社の尽力で少し離れた斎場で骨上げすることができた。
付き添ってきた叔父は、所用があって先に戻っていった。おぼつかない家族の中で、正人の役割は重くなるばかりだった。
両親には目の玉の飛び出るような請求だったようだが、高額医療費の還付その他によって軽減される手続きのやり方を、病院事務の職員が細かく教えてくれた。
葬儀社への支払いも定めどおりで、正人の目にはマニュアル以上の苦労をかけた負い目が残る正当さだった。
収骨した壷を正人が抱えて、親子四人が明野村に帰った。冴子一人は寺に預けられその場で供養されたのち後日人目を避けるように密葬された。
疲れきった母親は寝込んでしまったが、冴子はとりあえず故郷の土に還ることができたのである。
姉を連れ戻した安堵の気持ちはたしかに感じられた。
同時に姉を喪った虚しさが日に日に満ちてきた。自分の日常が紗幕をかけたように不鮮明で、さほどの意味を持たない瑣末なことに思えていた。
(もう一度、東京へ行かなければならない・・・・)
その意識だけがはっきりしていた。
浅草に回って、みどりさんに報告しなくてはいけない。お礼を言って、用立ててもらったお金を早く返さなくては申し訳ない。
(・・・・そして、彩華のヒモだった男に会い、そいつに冴子を売り渡した元の夫を突き止める)
正人は自分の取るべき道筋を見極めたのち、歳末のあわただしい雑踏へ向けて出て行った。
前回投宿した上野の安宿に腰を落ち着けた。
みどりに電話をすると、舞台が跳ねたあとロック座に近い寿司屋で会ってくれることになった。
夜の十一時はまだ宵の口だった。
カウンターに座って出花をすすっていると、程なくみどりが暖簾をくぐって現れた。
「お待たせ・・・・」
正人の肩に手を置いて、「あっちのテーブルに行かない?」
さりげなく何脚かある椅子席の一つを指し示した。
「はい」
正人はみどりに従った。
言葉の意味するところを理解する前に、コバルトブルーのコートに黒い毛皮のショールを巻いた衣装に目を瞠っていた。
「あなたも大変だったわね」
すでに冴子の死については報告してあり、悔やみの言葉はもらっている。「彩華みたいに心根のやさしい子は居なかったわよ」
本心から出るいたわりの言葉が、何よりの支えになっていた。
そして今度は正人をねぎらってくれる。
ストリッパーという職業に対して抱くことの多い偏見を根底から払拭してくれるみどりの人柄に、思わず涙ぐむのを隠し切れなかった。
「みどりさんに好くしてもらって、姉さんも喜んでいたとおもいます。・・・・長くない一生でしたけど、最後のところだけはきっと輝いていたと信じています」
運ばれてきた寿司を前に、膝に手を突いたまま鼻水をすすった。
「さ、元気を出して! 今夜は彩華の供養よ。三人でお寿司をいただきましょう」
湿っぽさの取れない正人を元気づけるように、大きな口でウニの軍艦巻きをほおばった。
一本の銚子をときどき傾けた。十二時近くまで想い出を語り合う中で、正人は冴子のヒモだった男の居所をあからさまに訊いた。
「ダメダメ、あんたみたいな坊やが行ったってろくなことにならないわ。あんな男には会わないほうがいいの」
みどりは正人の表情を探るように盗み見た。
「はあ」
正人も気乗り薄の返事をした。どう見ても真正面から対峙して甲斐がある相手とは思えない。「・・・・それより、せめて姉が結婚していた人に知らせてやりたいのですが」
心を隠すことに慣れていない正人は、苦渋の顔をさらけ出したまま呟いた。
「いいわよ。いつか彩華から住所を教えてもらって、ここに書いてあるわ」
みどりは黒いハンドバックを開いて、小さな手帳を取り出した。
正人はみどりが読み上げる住所とそれに続く名前を、胸を高鳴らせながら書き写した。
初めて知った冴子の姓が意外に平凡だったことが、ここに至る運命を暗示しているようで切なかった。
一時の激情に翻弄されて、彼女自身の未来に予測をつけられなかった姉の判断に深い憾みが残った。
(元の名字のほうがよほどよかったのに・・・・)
いくら悔やんでみても、無念の思いが晴れることはない。
ほんの一、二杯口にした供養の燗酒が、冷えた心にじんわりと沁みた。
手がかりを得て、佐藤の捜索はスムーズに運んだ。
桃源郷にも例えられるほど恵まれた農村から姉を連れ出し、都会の汚濁にまみれさせた相手の男が、いまもなおテラテラと生きていることが確認できた。
『新宿区大久保・・・・』
冴子の亭主だった男は、繁華街の周縁部に位置するマンションに住んでいた。
昼過ぎに起きだして近くの食堂で食事を済ませ、ひとしきりパチンコで遊んだあと銭湯に行って身づくろいし、夜の行動に備えていることが判った。
夕方になると駐車場から白の中型セダンを乗り出し、夜中に帰ってくるという生活をしているらしい。
白タクが仕事なのか、あるいはクラブ勤めの姫君を送り迎えしているのか。
それにしてはマンションに女の出入りがないのが意外だった。もっとも短期間の観察ではそれ以上わかるはずもない。
いずれ女が現れるかもしれないし、相手先に時化こむとか、手癖の悪さを何者かに封印されているといったことも考えられた。
いずれにせよ佐藤は遠目にも優男のイメージで、正人にも冴子が夢中になったわけが納得できた。
状況次第でいくらでも不誠実になれる類の男と見受けたが、女たちは相も変わらず見せかけのやさしさと不良っぽさに弱いらしい。
冴子がそうであったことに複雑な思いがしたが、姉のこととなると不憫さが先にたって、たちまち収拾のつかない感情に胸を圧されるのだった。
正人は姉の前夫だった佐藤と面会する日に備えて、周到な準備を進めた。
上野の量販店で野球帽とビニール紐、布テープ、ビニール合羽を買い、ついでに小ぶりの段ボール箱を一個もらって旅館の部屋に持ち込んだ。
おあつらえ向きに氷雨となった日の午後、宅配便を装った正人の姿がマンションの三階通路にあった。
佐藤は今しがた銭湯から帰ってきたところで、ぼちぼち出かける準備をしているはずだった。
さほど戸数の多くないマンションだから、受付があるわけでもなく、住人ともすれ違うことなく扉の前まで来ていた。
「佐藤さん、宅配便です」
ブザーを押しながら声を掛けた。
中からレンズを覗く気配がした。このときのために用意した正人の服装を確認しているはずだ。
野球帽の上からビニールの合羽をかぶり、段ボール箱を抱えた配達人を間もなく迎え入れるだろう。
一呼吸置いてガチャリとロックがはずされた。
内側から扉が押されるのを待って、正人はドアノブを引き開けた。
「佐藤さんですね? お届けものです。ハンコかサインをお願いします」
心当たりがないのか一瞬いぶかしげな表情をしたが、時節柄どこかから遅い歳暮が届くこともあるのだろうと荷物の箱に手を伸ばした。
「すみません、この伝票にサインをお願いします」
佐藤の手を制するように送り状を差し出した。
「何か書くものある?」
正人からボールペンを受け取り、床に置いた荷物の上でサインをしようと前屈みになった。
「どこからだろう?」
ぼそぼそと呟くのを正人は聞き逃さなかった。
「滝川冴子さんと書いてありますよ」
佐藤はぎょっとして配達人を見上げた。しかし、目の前の男の挙動に不審を抱いたときにはもう遅かった。
いつの間に取り出したのか正人の手に古風な刃物が握られ、その刃を佐藤の首筋に当てていたのだ。
「このお届け物は、値がつかないぐらい高価なものらしいですよ」
「きみは誰なんだ・・・・」
フロアーに尻をついて、すでに腰を抜かしている。
「まあ、箱を開けてやるから見てみなよ」
正人は肥後の守の切っ先でビニール紐を截ち、包装のテープを裂いた。
中から取り出されたのは、黒いリボンを掛けた冴子の遺影だった。姉が友人と並んで撮った若き日の写真を引き伸ばしたものだ。
「ほら、覚えがあるだろう。お前が騙して連れ出した滝川冴子だよ」
佐藤はこの期に及んでも、まだ事態を把握していなかった。
「・・・・冴子が死んだっていうのかい。・・・・それとも、あんた冴子に頼まれて文句を言いに来たのか」
「勝手に来たんだよ。お前にめちゃめちゃにされた姉さんの無念を、たっぷり晴らしてもらうぜ」
知らず知らずのうちに感情が昂ぶっていくのを、正人は酔い痴れる気分で味わっていた。
このまましゃべっていると、当初考えてきた結末が狂いそうな気がしていた。
「めちゃめちゃにしたなんて、一方的過ぎますよ・・・・」
佐藤が漏らした一言が、正人に冷や水をかける結果となった。
「てめえ、まだそんなことを言うのか」
正人の怒りが首に当てた刃先に伝わった。激しく引いた肥後の守を覆うように、佐藤の血潮が盛り上がってきた。
冴子の弟とわかったいま、佐藤はひたすら謝るべきだったのだ。
謝ることで結果が違ったかどうかは判らないが、言い訳めいた抗弁が通じる状況ではなかったのだ。
もう正人に言葉はなかった。頚動脈から噴きあがる鮮血を押さえ込もうとするかのように手袋の手を首に当てて締め付けたが、五本の指の隙間を狙って漏れ出す血潮が正人のビニール合羽を染めた。
(お前が悪いんだからな)
敵を取ったという達成感はまったくなかった。(・・・・お前が姉さんを殺したんだから、こうなるのが当然なんだ)
仰向けに倒れて絶命した相手に、自分の正当性を認めさせようとした。
正人は血糊の付いたビニール合羽を脱いだ。野球帽、軍手とともに丸めて段ボール箱に押し込んだ。
凶行の痕跡はジャンパーの袖口に残った。
逃げるように背を向けた正人の第一歩が、玄関のタイルに赤黒い靴跡をつけた。靴底のラバーにも血糊が忍び寄っていたようだ。
欲に駆られた犯罪ならば、徹底的に痕跡を消し去ろうとしたかもしれない。
無意識のうちに逃げようとする気持ちが働いていたが、正人の意識は冷酷に計算された行為を要求しなかった。
捕まりたくない思いの一方、どうせ捕まるだろうとの予感があった。要は捕まるまでに多少の時間が欲しかったのだ。
公園のトイレで手を洗った。袖口を水で揉み洗いした。
足下に水を垂らし、その上で靴底の血糊をこそぎ落とした。コンクリートの床に血の跡が広がったが、そのまま放っておいた。
すでに宿は引き払っていたので、正人はそのまま新宿駅に向かった。
途中のドブ川に段ボール箱もろとも身に纏ったものを捨てた。うまくすれば濡れて底まで沈み、汚れた水面に隠されるかもしれなかった。
兄の形見の肥後の守も別の場所に捨てた。街路樹のポプラの根元だった。真っ赤に錆びて発見される日のことを夢想した。
正人は松本行きの特急に乗り込み、キオスクで買った幕の内弁当を開いた。冷えて硬くなった米飯が正人の正気を保たせた。
とにかく腹が減る。タケノコや里芋の煮つけがことのほか旨く感じられた。
正人の頭の中で、大久保での事件はもう過去の出来事になっていた。終わったことは消し去ればいい。そのためには昏睡するほど眠ることだった。
故郷に帰って正人はまず寺を訪れた。墓地の片隅に立つ姉の塔婆の前で手を合わせた。
実家では、ジャンパーの下に隠して持ち帰った遺影を仏壇の中に収めた。
親の気持ちはわからないが、爺と並んだ姉の笑顔を因習だけで拒絶することはできないはずだった。
深夜、正人は家人が寝静まるのを待って起き上がった。
雨戸をずらし、廊下から庭に降り立った。
夢うつつのうちに見た姉の後姿を想い出していた。
月の光が霜のように白く地に降り敷いている。
寒風が釜無川にかかる遠くの橋や近くの岩に当たって、ヒューヒューと音をたてた。
夏の間この川が奏でていた口笛のような瀬音は、強い北風にかき消されていた。爺が虎落笛と呼ぶ風の叫びは、正人の心を心底凍えさせた。
風の合間を縫って、懐かしい調べが聴こえた。
凍てつく波が流れの隘路で笛の音を奏でたのだ。
(なんだよ、あんなところで口笛を吹いている・・・・)
正人は一段と深くなる淵の辺りを透かし見た。誰かが正人を呼んでいるようだ。
「姉さん、いま行くよ」
音の源へ向かって身を乗り出した。「・・・・仕返しは済んだからね」
釜無川の水に膝を突き、正人は自裁の身を横たえた。
(終わり)
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それで案の定と申しましょうか、たいへんドラマチックな大団円になりましたね。(大団円はハッピーエンドに使う言葉かな?)
それにしても、驚きました。姉のモト夫を殺め、弟も自らあの世に行ってしまうなんて。
これまでの"窪庭流"ではないような終焉に度肝を抜かれました。
しかし、前・中編を思い起こすと、姉が若くして出奔したときから、殺戮の伏線が敷かれていたように思えます。
「月下の口笛」もすでに終末を予言していたんですね。
中編小説にしても、このような絡みのある構成を組み立てるのは、難しいことでしょうが、執筆冥利にも尽きることでしょう。
ただし、読む側としては前・中・後編の投稿間隔が広かったので、前に読んだ回の中身の印象が薄くなったのはやむを得ないところでした。
何かコメントにならないようなコメントですが、次作品を期待したいところです。
はたして、結末は序破が急を告げて陰惨な殺人現場に至ります。けれど、読後感は悪くない。それは主人公が<自裁>を覚悟していたからです。
姉を結果的に弄び死に至らしめたしたたかな男が、たかが肥後の守にたじろぐとは思えず、いくぶんリアリティを欠きますが、修羅場をあっけなく描破したことで、印象が潔い。
途中の、姉が収容されている病院へと急ぐ描写も一段と推敲されて、緊張感が増すままにラストを迎える。これは傑作です。久方ぶりの労作に乾杯! (M・KО氏より)