翔太はその夜ふしぎな夢をみた。
夢の中で、彼は二階の子供部屋の窓辺に立っていた。
丘の上の二階家だから、下を走る国道からは三階建て以上に見える。
その部屋の大きなガラス窓に手を当てて、翔太は青黒くひろがる海をみつめていた。
堤防の向こうは片瀬海岸だ。
丘の上から見下ろす浜辺を、静かな時間が流れていた。
夢とわかっているのに、翔太を包む空気の感触はやわらかかった。普段とあまり変わっていない様子に、安らぎの気持ちをいだきかけていた。
ところが、何かが変なのだ。
まだ真夏の喧騒が訪れる前の、闇のたくらみがあたりを支配していた。
どこか空の一角で不穏な音がする。
なにか見知らぬものの気配が感じられた。
悲鳴を押し殺したような、恨みを飲み込んだような、生身のものを思わせる鼓動が闇の中に隠れていた。
翔太は昼間、スモを苛めた。水槽から出してしばらく床の上に放っておいたのだ。
スモは、左右の足がアンバランスな嚙み付き亀だった。
翔太はときどきスモをあたふたさせて喜んだ。イジメというほど酷く扱ったわけではないが、ある時は水深を深くして甲羅干しのための陸場を水没させた。
アップアップしたように首をもたげるのが面白かった。
別の日には、水抜きをして掃除をするあいだ、フローリングの床に放置した。スモは床の上に放り出されて、手足を不器用にばたつかせた。
それを翔太はスモの出稽古と称していた。
きょうは、その出稽古の日の仕打ちに近かった。
亀になぜスモという名をつけたかというと、買った時から顔付きがモンゴル出身の力士に似ていたからである。
小さいながら、人騒がせな横綱を彷彿とさせた。
しかし、ズバリ相撲取りの名をつける感覚は、翔太の中になかった。
似ているからといって安易にあだ名を用いることへの違和感もあったし、誰かに理由を聞かれたりするのがいやという気持ちも強かった。
今年二月に義母となった志津子は、翔太がスモと名付けたときには意識の中にない一人だった。
噛み付き亀を飼い始めたのは三年も前で、そのときからスモという名前だったから、亀の名前と志津子のあいだには何の関係もなかった。
にもかかわらず、父が再婚したとき、後から義母に命名の理由を訊かれそうな気がした。
モンゴル出身の力士からの連想だといったところで、曖昧さが残るに決まっている。
理解させるために言葉を尽くすのは、何より面倒なことだった。
誰とも関係したくないというのが、翔太のほんとうの気持ちだった。その中でも、義母を忌避する気持ちがとくに強かった。
「翔太ちゃん、亀が好きなの?」
とりあえず、そんな言葉で探りを入れてくるだろう。
「はい」
そう答えるしかなかった。
「いつからお友達なの?」
「さあ・・・・」
余計なお世話だと思いながら、はぐらかすはずだった。
「なんていう名前なの? あら、どうしてそういう名を付けたの?」
そっちの方向へ向かうのは、目に見えていた。
だから関係したくないと思うのだ。
そして現実にその日が来た。
翔太は亀の名を教えなかった。
翔太が教えなかったものだから、義母は「亀さん」とか「亀ちゃん」と呼ぶようになった。
可愛いと思っているはずがないから、声音にも親しさが感じられなかった。
藤沢駅前のペットショップで亀を見つけたとき、スモは五百円玉ほどの大きさだった。
ガラスケースの中の岩礁に、無我夢中でしがみついているように見えた。
五匹いた兄弟の中で、一番色が薄く小さかった。
だから買った。
実母を亡くした直後だったから、父は一もニもなく買ってくれた。
彼がブクブクと呼ぶカルキろ過装置付きの水槽は、ペットショップの店員が設置してくれた。二階にある子供部屋の北側の隅だった。
亀の餌には、教えてもらった乾燥海老や配合飼料を与えた。
三日に一度の水の入れ替えは、翔太が欠かさずやってきた。
学校から帰ると、陸場にライトを当ててスモが甲羅干しをするのを待った。
翔太は一人だったし、スモもひとりだった。
水槽のガラスを隔てて、翔太とスモはよく遊んだ。
指で合図をすると、スモが水槽の縁に寄ってきた。
一人とひとりだから、どちらかが飽きると愛想なく離れた。
スモと自分が心の奥で繋がっているとは思わなかった。
唯一の親友だとか、スモになら悩みも打ち明けられるといったことは考えたこともなかった。
スモに対するだけでなく、人間に対しても同様だった。
クラスの中でも、とくに仲のよい友達がいるわけではなかった。そうかといって対立する生徒と反目しあうといったこともなかった。
シラケていると陰口をいう者もいた。しかし、無口と怜悧さが際立っていたから、正面切って喧嘩を仕掛ける男子は誰もいなかった。
協調性があれば、級長にもなれるものをと、わざわざ通知表に書いてよこす先生もいた。
再婚したての父は、妻の志津子にそのことを自慢げに話した。
義母はさっそく「協調性」という言葉をつかって翔太の態度をやわらげさせようとした。
猫なで声と気味の悪い接近が、翔太をますます頑なにした。
夏休みに入る早々、翔太は大分の叔母に呼ばれてニ泊三日の旅行をすることになった。
亡くなった母の供養に因んでの招待だから、父も反対できなかった。
後妻のまえで大っぴらな法要もできないから、翔太の慰めを田舎の義妹にゆだねられるのは内心歓迎だったはずだ。
「翔太、カメの世話をお義母さんによく頼んでおきなさい」
父は多忙な仕事柄、自分ではペットの世話などできないことをよく知っていた。実際、留守中は義母に頼むしかないのだ。
「はい、そうします・・・・」
父と義母の前でそう答えた。
羽田へ向かう日の朝、父がいない子供部屋で翔太は義母に留守中の手順を説明した。
「掃除は三日に一度でいいから、ぼくが戻ってからやります。水温はいま設定している26度のままでいいです。お願いするのは、時たま陸場にホット・スポットを当てるのと餌やりだけです」
餌はペットショップで買った飼料の袋から、一日一回やるように指示した。「・・・・ぼくはスモに直接手から与えますけど、おばさんは怖かったら水面に浮かべてもいいです。確実に食べきれないと水が汚れますから、適量を少しずつ与えてください」
義母は「おばさん」と呼ばれたことで動揺していた。
怒るべきか諭すべきか迷った末に、口を利いてくれただけでも進歩したのだと自分に言い聞かせた。
翔太が空路大分に飛んだあと、少年が陸場と呼んでいた岩礁の中央にホット・スポットを当てた。
水温よりも暖かくなった場所へ亀は自力で這い上がり、しばらく気持ち良さそうに甲羅干しをしていた。
志津子は容易になつかないと思っていた亀が、自分の行為に素直に反応したことで、すっかり好い気分になっていた。
餌を与える時刻になって、恐るおそる乾燥海老を水面に撒くと、亀は浮き上がってきてパクリと飲み込んだ。
トカゲとオコゼをミックスしたような醜い顔で、夢中で食いつく姿がほほえましかった。
テトラ・レプトミンの場合、つい餌の量が多すぎて亀が見つけないうちに沈む粒子があった。
「食べきれないで溶けると、水が汚くなるからね」
翔太の注意が、早くも現実のものになりはじめていた。
(水が濁ったらどうしよう・・・・)
次の日は指でつまんで丁寧に与えようと思った。
事件は、翔太が帰ってくる日の朝に起こった。
志津子が亀の鼻先で餌をやろうとした瞬間、首をもたげて指に嚙みついたのだ。驚いた志津子は、悲鳴をあげながら振りほどこうとした。
水中から引き抜かれた亀は、ダムから引き上げられた事故車のように雫を滴らせて宙を舞った。
水槽の台にぶつけると、亀はギャッと叫んで指を放した。
ほんとうは志津子の声だったが、彼女には亀が悲鳴をあげたように聴こえた。
指の腹に血が滲んでいた。かなり深く嚙み跡が残っていた。
目の端に、ひっくり返ってもがく亀の姿を捉えていた。白っぽい腹部が、異様に大きく見えた。
(そうだ、この子は噛み付き亀だった・・・・)
そのことを忘れていた自分に愕然とした。
なんとなく知っていたはずなのに、餌に寄ってくる素直さにごまかされていた。ライトを当てた陸場に這い上がる可愛らしさに、亀の本性を見誤っていた。
(わたしって、なんて迂闊なの?)
志津子は、はじめ自分の過失を責めた。
しかし、どこか割り切れない気持ちが残った。
とりあえず亀を塵取りにのせて水槽に戻し、近くの開業医に駆けつけた。
傷痕を消毒しながら、年配の医師はぼそりと呟いた。
「近頃あたりかまわず捨てるやつがいるから、気をつけないとね・・・・」
下手をすると指を食いちぎられますよ、と付け加えた。
「ウチの子供が飼っているんです」
口まで出かかったが自制した。
再婚先の一人息子で、なかなかなついてくれないのだと愚痴をもらすのが億劫だった。
たまたま先妻の郷里に行っていて、自分が留守を預っている最中の出来事だと説明するのがわずらわしかった。
だから、化膿止めの軟膏をもらって家に戻った。
台に叩きつけた亀の生死が、急に心配になった。
夕方、主人が翔太とともに帰ってきた。
羽田まで迎えに行って、連れ帰ったものだった。
忙しいと言いながら、息子のことを気にかける亭主の態度を心の奥底に仕舞い込んだ。
「あれ?」
帰って来るなり、翔太がスモの異変に気がついた。「・・・・どうしたんだろう、甲羅が割れている」
「この亀、わたしの指に噛み付いたのよ。食いちぎられると思ったから、振り回したの。そしたら水槽の台にぶつかってやっと放したの、怖かったわ」
「ひどい・・・・」
翔太が非難の目で志津子を見た。
瞬間、割り切れないでいた気持ちの正体に行き当たった。
「何がひどいの! 亀に直接餌をやっているなんて、わたしを騙したでしょう。油断させておいて、噛み付くように仕向けたのね!」
翔太は急に黙り込んだ。
密かなたくらみが見破られたからか、あるいは父の前で義母と言い争うことの不利を悟っていたからか、悔しさをこらえて視線を落とした。
「翔太、この亀はこれからもっと大きくなって手に負えなくなる。いまのうちに川に逃がしてやりなさい」
目に涙を一杯ためた翔太への同情で、父も声を震わせていた。
「わたし、指を怪我してお料理もできないから、しばらく家に戻らせていただきます」
志津子がダメ押しするように宣告した。
スモはそれから二日間、翔太の部屋に留まっていた。
義母が実家に帰ったのは諍いのあった翌日だから、スモの運命は翔太ひとりの手に握られていた。
甲羅にひびの入った亀は、はじめ元気だったが、志津子がいなくなったあと急に動きが鈍くなった。
見た目以上にダメージが大きかったらしい。
翔太はスモを水から引き上げて、フローリングの床に置いた。
以前からやっていた出稽古に似ていたが、今日はイジメというより観察のための処置だった。
後妻に出て行かれた父は、再びスモの処分を命令した。
命令といっても、息子に対する哀願に近かった。
「分かったよ、父さん・・・・」
朝のうちに覚悟を決めていた。
観察した上で、翔太はいよいよ決断した。
湿らせた新聞紙にスモを包み、自転車で引地川に向かった。
川沿いを少し遡り、鎖で閉鎖された降り口のバリケードをまたいだ。コンクリートの階段を降りると、いきなり水面が足もとを洗った。
暑いさなかだったので、人目は少なかった。
それに一旦階段を降りてしまうと、護岸自体が道路からの死角を形づくる遮蔽物となった。
翔太は、ズックの肩掛け鞄に入れてきた紙包みを取り出した。
新聞紙を取り除くと、スモが体を揺すって這い出てきた。
階段の最下段に嚙み付き亀を置いて、最後の決断を彼に任せた。
「スモ、元気で生き延びなよ」
淡い期待かもしれなかったが、翔太は亀に声を掛けた。
スモは転げるように水に落ちた。
翔太は残っていた餌を上から振り撒いた。
翔太が夢を見たのは、その夜のことだった。
夢の中で、彼は窓辺のガラスに手を突いていた。
二階家の子供部屋から見下ろす海は、青黒く静まっていた。
砂浜は人気がないにもかかわらず、ものの気配に占められていた。
ひそひそと囁きあう亡霊が、沖へ向かって引き波のように笑い声を運んでいった。
ざわめきに過ぎなかったものが、時間を経て規則正しい鼓動に変化した。海と空が接するあたりから、音が生まれ、まばゆい光が生じた。
翔太は近づいてくるものの気配に怯え、金縛りにあったように動けなかった。
血肉から生まれた鼓動が、間隔を狭めて天空に駆け登った。空がはらんだ異質の音が、翼となって翔太に向かってきた。
「うわあ、UFОだ」
翔太は窓際でのけぞった。
青白い光の帯が、翔太の顔を掠めていった。
ひっくり返ったまま見上げると、スモの腹に似た白地の模様と四つの着陸装置が翔太の目に映った。
「ああ、天に帰っていったな」
翔太は気づいていた。スモは沖に流され、海流に揉みくちゃにされて、原初の命に戻ったのだ。
人が金属性のものと思い込んでいるUFОは、実は鼓動する生物に近い存在かもしれない。
硬い殻状のものは見せ掛けで、内にひそむ生命の脈動もろとも昇華したものにちがいないのだ。
翔太は、いま見た青白い物体が、嚙み付き亀のスモの化身に違いないと確信した。
もう一度確かめようと子供部屋の窓に近寄ったつもりだったが、翔太は水槽の内側からうっすらと汚れたガラスに手を突いていることに気づいた。
(これは夢なんだ・・・・)
翔太は慌てることなく水槽の底の玉砂利を踏み締め、自分が置かれた状態は夢なんだと、もう一度つぶやいた。
翌朝、片瀬海岸に亀の死骸が打ちあげられた。
サッカーの練習に来た地元の子供たちが見つけ、おそるおそる覗き込んだ。
わいわい取り囲んで騒いでいたが、まだ目玉が光を失っていないことに気づいて気味悪そうに離れていった。
水のない水槽にはまった翔太は、まだ誰にも発見されていなかった。
夢を見ているのか、うっすらと笑った口元がホット・スポットの輪の中に浮かんでいた。
(おわり)
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とりわけ奇々怪々なところがあり、頭をひねりながらも、つい引き込まれてしまいました。
少年と愛玩用の亀、息子と義母、それらが織りなす言動が浮かび上がっているのも新鮮です。
で、最後になって『軟体UFО』というタイトルが何を意味しているのか、愚鈍なわたしには解せず、少し苦しみましたっけ。
そんな読後感も、たまに味わえてよかったですよ。
書き出したときの仮題みたいなもので、ぴったりのタイトルがみつからないまま発表してしまったというところでしょうか。
もう少し考えてみます。ありがとう。
この方が全体を暗示できそうに思います。
どうでしょうか。
『夢のゆくえ』であれば、けじめが付くようですね。
それと前回書き落としましたが、その亀を藤沢のペットショップで買い、片瀬海岸を望む家で育てているなんて、"窪庭作品"は相変わらず地理に詳しく感嘆しました。
どこまでが夢で、現(うつつ)にしても本当に現実だったのか・・・境い目がさだかではないその感じをとても面白く読みました。
ことによると私たちがこの世で経験している大部分は夢のようなことだったりして。
だって、私たちが作るものの大部分は大脳活動の想像力によって生み出されたものであり、私たちの日々の生活はそういう空想の産物に囲まれて成り立っているのですから。
ひとつの操作間違いから空港機能や交通システムが完全にお手上げになるくらいなんですから。
話がそれました。
知恵熱おやじ
<夢は恰好の装置>・・こんな便利なものを、犬や猫も持っているのでしょうか。
以前獣医に聞いたところでは、ペット動物も夢をみるらしいということです。
寝言のような声(唸り声?)を出すこともあるとか。
もっともどんな夢を見ていたか、聞いてみて確かめることは出来ないので、それが人間世界で言う夢と同じものなのかは分からないようですが。
知恵熱おやじ
たぶん夢の中でも走り回っていたのではないか、ということでした。