(草津で遇った震災避難民)
3月26日(土曜日)の早朝、東京を出て北軽井沢へ向かった。
軽井沢をぬける時刻、街はまだ雪が舞っていた。
二週間前の11日には、午後2時46分ごろ埼玉県内でクルマの運転中に強烈な揺れを感じ、小一時間様子を見た末に北軽井沢に向かったことは前回記した。
途中ひっきりなしに携帯電話の緊急地震速報が鳴り、カーラジオの速報とダブルで事態の容易ならざることを知った。
夜になっても、今度は長野北部・中越地震の洗礼である。
震度6強だったか、二度ほど大きな揺れにとび起きたが、雪国仕様で結構頑丈に作られているのと、二階がない分余り恐怖感は感じなかった。
東北・関東大地震の余震も一晩中あって、交互に起こる地震の速報アラームに、常ならぬ興奮状態の一夜を過ごした。
その後に報じられた大津波の被害は、想像を絶するものであった。
世界を震撼させたリアルな映像を見やって、驚愕とともにテレビの<衝撃映像>を見るときの爛々たる好奇の目が意識された。
ところが、間もなく福島原発のニュースが伝えられると、注目は俄然そちらに移った。
主役は、地震や津波ではなく、完全に原子力発電所に奪われたのである。
この時点で、当事者であったことにやっと気づいた人も少なくない。
地震・津波の自然連動型大震災である一方、住民無視・国民不在の政治・行政・経済が作り出した人災型大震災であることがはっきりしたのである。
「パニックを起こさせない」というカムフラージュのもとで、多くの真実が隠されつづけている。
海外から日本人の美徳として称えられる「我慢強さ」や「礼儀正しさ」も、「騙され続ける国民」「怒りを忘れた国民」と思えば、割引して考えざるを得ない。
東京電力幹部や原子力保安院の担当者の説明にいらだちを感じ、政府の独自性のない発表に無力感を抱いた方も少なくないに違いない。
本来、一番に身を乗り出して原発の安全性回復に尽力助言すべき『原子力安全委員会』の姿が後方に隠れたままなのも納得いかない。
マスコミも相変わらず牙を抜かれたまま。
各社勢ぞろいした学者・専門家の言も鵜呑みにはできない。
(ちょっと変だぞ?)と思ったら、その地下には膨大な不信が埋まっている。すぐにも、それぞれが掘り起こしてみるべきである。
友人から紹介された『ようこそ! 副長のブログへ』(http://ameblo.jp/hennaoji/entry-10840168915.html)を、参考までに載せておく。
さて、タイトルの方向へ軌道修正。
二週間ぶりに草津町へ行ったところ、コンビニの駐車場でクルマのドアを開けたとたんに70歳台と思われる男の人に声をかけられた。
日に焼けた顔、薄手のジャンパー、黄色い輪っかの入った長靴、どうも土地の人には見えず温泉客でもなさそう。
話しかける言葉もよくわからない。
そういえば、草津町が福島県からの被災者を受け入れたというニュースがあったことを思い出し、「どちらからいらっしゃったのですか」と尋ねた。
「福島の浜通り」という答え。
「えっ、あの震源地の?」
思わずとんでもないことを言ってしまったが、老人はわが意を得たりという感じでうなずいた。
震源地ではなくとも、今回の地震でも何回も最強震度を計測した町であるから話はそのまま進行した。
「じゃあ、こっちへ避難してきた方ですよね?」
また、うなずく。
「何人ぐらいいらっしゃったのですか」
「バス5台で昨日着いた」
一台50人として、ざっと250人ぐらいか。
正確なことはわからないが、ホテル○○に落ち着いているということで、あるいは一か所でなく分散しているのかもしれない。
「大変な被害だったでしょう」
「ああ、それはもう・・・・」
心の底に不安があるのか、とにかく他人と話したい気持ちがありありと感じられる。
声が高ぶっているのも、不安の裏返しだろう。
しばらく同じ方向へ歩いて行ったが、そのまま先を目指すようだ。
「気をつけて・・・・」
なんとなく街の様子を知りたいのだろうと推量した。
帰りがけに注意してみると、同じタイプの長靴を履いた老人をあちこちの通りで見かけた。
食事が済んで旅館の中に居づらいのか、受け入れてくれた街を頭の中に取り込んでイメージしたいのか、たぶんその両方だろう。
ほっとした気分とは別に、場所に慣れるまで動き回らずにはいられないのだ。
どうぶつの本能に起因すると思われる行為に接して、このあとの心の放浪が思いやられた。
月並みで情けないが、「くじけないで生き抜いて!」としか言いようがない。
人の善意を信じる一方、国や役所、企業の上層部には、いつも疑いの目を持ってもらいたい。
それが、普通の庶民が普通の幸せを取り戻す手段の一つであろうから・・・・。
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そうだったのですか!
あの日のこと、仔細に伝わってきましたよ。
ともあれ、難を逃れられたようで良かったですね。
それにしても、今次原発事故には哀しさと憤りが交錯してなりません。
そして、あたしが思うのは、65年前の長崎と広島に落とされた原子爆弾です。
幸か不幸か、それで大戦が実質的に終わり、以後、営々として我が国民は復興に努めてきたわけです。
そして、高度成長が下り坂に向かっている最中、こんどは原子力発電所の禍が立ちはだかってきたわけです。
何が幸いで、何が不幸か。
数限りない被災者に同情を禁じ得ませんが、その他大勢の国民が一丸となって復興を目指すときがやってきました。
そんな一端を、ひとつの現場報告として読ませていただきました。
今回のことは、高度経済成長の名の下、やみくもに所得と利便を求めた挙句の自爆行為です。
グズグズの地盤の上に、コンビナートや原発を乗せて平気な顔をしていたのは、いまから思うとブラックジョーク以外の何ものでもありません。
優秀な頭脳と、卓越した技術で、危機を回避できると考えたのでしょうが、自然の持つ破壊力が想定を超えるという事実を想定できなかったのです。
日本人相手に言い逃れはできても、世界の知性はそれを許さないでしょう。
自らの胸に手を当てて、日本国民と世界の良識にに謝罪する人間が出てくることを望んでいます。
まさかあらゆるものが過剰に溢れかえる今の時代に突然そのような寄る辺ない日々が自身の人生に起ころうとは、想像したことさえなかったことでしょう。
しかし私たちは誰でも同じように穏やかな日常のすぐ隣りに、奈落のようなものを抱えている存在なのでしょう。
諸行無常・・・という言葉がいまさらながら身に沁みます。
だからこそ人間は生きとし生けるものは皆「社会」という「助け合いのシステム」を本能的に創るのでしょう。
「格差社会」という言葉が当たり前のように使われて弱肉強食を黙認するような雰囲気が出てきていたここ数年。
私たちは今度の大震災で、本当は一人ひとりが弱い存在であり、助け合いの心とシステムを見直さないかぎり人類に未来はないことを教えられているのかもしれません。
私は昭和22年に家族7人、今はロシア領となっている樺太から全てを失って札幌に引き揚げてきた人間です。
5人兄弟の長男であったわたしはそのとき小学3年生でしたが背中に大きなリュックを背負い弟妹たちの手を引いて、まるで難民のように札幌郊外に指定された兵舎跡の引き揚げ者寮に疲れきってのろのろと歩いていました。
その途上一軒の魚屋から親父さんが呼びかけてくれて子供たち皆にはんぺんを一切れずつくれたのです。空腹の中はんぺんの上手さは格別でしたが、それ以上に子供心にも嬉しく心に響いたたのは河田さんというその方の短い言葉でした。
「大変だったな、大丈夫だからね、がんばるんだよ」
その日から64年経つ今でも「河田」というその名と顔はくっきりとわが胸に刻まれて消えません。
埼玉県に住むようになってからも札幌に帰るたびにその河田魚屋があった通りに足を向けます。もちろん今はもう名も知らないビルになっていて魚屋はないのですが、風に吹かれるようなあの日にかけていただいた言葉の嬉しさは「人は信じてよいのだ」という私の考え方の土台となって生きているようです。
窪庭さんが草津の街角で言葉を交わしたその方のなかにも、その日のことは長く消えない記憶として生きつづけるのではないでしょうか。
その女性は、いつ何があってもいいいように家の中をを整理整頓してから出かけるのだと、家内から聞かされていた。
(ほう、ずいぶん哲学的なことを言う人だなあ)と、普通の主婦ながら思慮深い言動に感心して胸に刻んだものだった。
ところが、今回の東北・関東大震災に直面してみると、何万の人が現実にそうした状況に出合ってしまったのである。
(知恵熱おやじ)さんのおっしゃる通り、諸行無常・・・・を身にしみて感じた出来事でした。
そして、樺太から引き上げてきた一家7人のお話!
リュックを背負った小学3年生を目の前にしているような現実感に、はげしく胸を揺さぶられました。
千年よりも64年、やはり削ぎ落とし切れない部分を残す分、言葉の喚起力は深いのでしょう。
今回の大震災の被災者は、まだ語ることもできない状況にありますが、人間に備わった修復の力を信じたいと思います。