「ぼくは、何があっても別れないからね」
おれは、呟くように言った。
「わたしだって、あなただけなのよ」
ミナコさんも、眩しそうにおれを見返した。「・・覚えているかしら、わたしの顔を、まじまじと見てくれた日のこと。あの時、営業のひとと話をしていても、ポーッとして何も覚えてないのよ。わたし、あんなふうに見つめられたの初めてだから、もう気が飛んでしまって」
ミナコさんは、頬を上気させていた。
おれは、たしかに魅入られたように立ち尽くしていたはずだ。そのときの情景を思い出し、闇を銜えていたミナコさんの唇が、いまも、そのまま、目の前にあるのを静かな喜びのなかで確認していた。
「おんなって、他のものは一切目に入らない・・というほど、見つめられてみたいものなのね」
ミナコさんは、自分に確かめるような口調で呟いた。「・・あなた、あの日から、なんとなく、わたしの周りをうろうろし始めたでしょう?」
だから、余計に、陶酔するほどの喜びを味わったのだという。
おれは気付かなかったが、ミナコさんはおれのことで、他の男性社員にからかわれたりしたらしい。
あとから知らされる真実には、本人では意図しえなかった運命の後押しを感じることがある。
<メメクラゲ>のいきさつもそうだ。いかにも、つげ義春らしいと評判を呼び、『ねじ式』人気の何割かを担った表現が、白山下にある写植屋のオペレーターで、紺野の友人でもある男の打ち間違いから出発していたとは。
おれは、そのことに運命のいたずらを感じ、同様に、ミナコさんに対するウブな男の横恋慕を面白がり、囃したてた社員たちの存在が、おれにとっては予想もしない幸運を呼び込んでくれたのだと思った。
「社長は、ミナコさんに、ぼくのことで何か確かめたりしたんですか」
もしそうなら、はっきりと認めてしまったほうがいいのだと、おれの気持ちを伝えたかったのだ。
「言葉にはしないのよ。だけど、なんとなく知ってるぞという素振りをするの」
「たとえば、どんなこと?」
「だから、心配しないでほしいの」
珍しく、苛立ちをみせた。
「ミナコさんにばかり、心配かけるわけにはいかないよ。ぼくに話してくれることだって、あるだろうし」
おれの方も、いつになく食い下がった。
「ごめんなさい。わたしだけの問題じゃないのよね・・」ミナコさんは、大きく息を吐いた。「でも、いまはダメ。この次、きっと話すから」
その夜、夕食が済むと、ミナコさんは帰り支度をはじめた。
当然泊まっていくものと思い込んでいたおれは、胸苦しさを感じて、肩で息をした。どんな時でも、溢れるほどの愛情をもらっていたおれが、初めて直面した喪失感だった。
「ミナコさん、いかないで・・」
おれは、置き去りにされる子供のような悲しみを味わっていた。
「そんな顔をして、どうしたのよ。まだ、なにも始まってないじゃないの。これから、どんどん難問を持ち込むから、しっかり解決してね」
わざと突き放すように言った。
おれは、胸中に満ちていた悲しみを振り払うように、天井を見上げた。
「わかった、ぼくも明日、用事があったんだ。すっかり忘れていたけど、友達と新宿で会うことにしてたんです」
実際、その約束はほんとうだった。待ち合わせの時刻が夕方だから、明日になってから予定をチェックすればいいのだと、単に放っておいただけなのだ。
あるいは、若いイノウエからの誘いを軽んじる気持ちが、おれの中にあったのかもしれない。マンダ書院との闘いにおいて、最後まで行動をともにしたイノウエではあったが、所詮その場かぎりの付き合いだと、切り捨ててしまった経緯がある。
だから、当日の気分しだいと考えていた集まりに、急遽出席しようと決心したのは、ミナコさんとのやり取りが関係していたのだ。
端正なイノウエと、同じくマンダ書院で訪問販売のチームを組んでいた佐鳥さんとの、結婚パーティーに出るのも悪くはない。
「イノウエって、まだ二十歳だからね。相手の女の子は二十二歳。仲がいいのは知っていたけど、いきなり結婚なんて信じられないよ。親の力を借りずに、二人だけで会費制の披露宴をやっちゃうなんて、ほんとに偉いよね」
おれは、明日の行事が作り話などではないことを、ミナコさんにどうしても信じさせようと、一人で力んでいた。
「きみィ、新宿なんか行って、変な女にひっかっちゃダメだぞォ」
誰のものとも分からない男ことばの声色を残して、ミナコさんは帰っていった。おれは、深夜まで眠れずに、FMラジオから流れる音楽に耳を傾けていた。
『ジェット・ストリーム』・・オープニングの星空間を飛翔するようなストリングスの調べに乗って、城達也の声が流れてくる。このところ、聞く機会が失われていたのは、ミナコさんと過ごした時間の充実を表しているのかもしれない。
寝苦しさに、タオルケットをはだけ、薄手の夏蒲団に横たわっていると、おれの体が枕ごと浮遊しているような錯覚に陥ってくる。きらめく星空のもと夜間飛行の旅に出た飛行機が、心地よい夢の世界にいざなってくれる。
おれの目尻から、涙が流れ、頬を伝って下界に落ちていく。
この先、おれはどこへ行くのだろう。感傷的な思いがつぎつぎと湧いてきて、甘い声と、空をわたる音の銀河に紛れ込み、いつまでも飛行し続けるのだった。
いつの間にか、眠りに落ちていた。
目が覚めると、騒々しい男女の掛け合いがラジオから垂れ流されている。
「こんな早くから、くだらないおしゃべりをしやがって、いったい何時だとおもっていやがるんだ」
おれは腹立ちながら、スイッチを切った。
枕もとの目覚まし時計を見ると、まだ五時前だった。
昨夜おれが抱え込んだ悩みは、何ひとつ解決の方向を見出せていない。あたり前だが、糸口が見つかるまでには、まだまだ時間が掛かるのだ。こんなときは、眠るのが一番だ。眠っているうちに、地球は回転し、黎明がやってくる。
おれは、おれのやり方で呼吸を整え、脳に送った酸素で頭蓋に溜まった雑念をひとまとめにし、再び目の奥から体の中心を通して丹田に引きおろした。
ニ、三度繰り返すと、頭の中が暗くなり、おれは再び眠りに入っていった。夢すら見ない、深い眠りであった。
(続く)
(2006/03/25より再掲)
大塚駅のジンギスカン料理店でエロ写真を売った男を、いかがわしい仕事をしていても嘘はつかなかった、と評した主人公に好感を持ちました。
ヨシモトの話が時々飛び込んできますが、未だ、何らかの形で、ストーリー展開に影響を及ぼすのでしょうか?
ミナコさんのマンションで、社長と鉢合わせしたシーンはドキドキしました。
写植機操作の職に就けて良かったです。
そうでしたか、いよいよ二人の関係が社長に気付かれてしまいましたか。
これからの展開がいよいよ楽しみです!
登場人物にも触れてのコメント感謝に堪えません。
ジンギスカン料理店を出た後に影のように忍び寄ってきた大阪弁の男を「いかがわしい仕事をしていても嘘はつかなかった」と評したのはそれまでに痛手をこうむっていた主人公の真の言葉だと思います。
ヨシモトの存在は主人公の憧れであり、精神的な支えなので何度か登場させました。
ミナコさんと社長と<おれ>の関係はメーンストーリーなので陰に日向に?毎回展開します。
写植機は昭和に登場し昭和の内に衰退した象徴的な印刷形態です。
主人公はその仕事に就けたことで生活を立て直し自信も取り戻しました。
丁寧にお読みいただき本当に嬉しいです。
蛇足ながらVRやフェイクのない昭和は正直な時代でした。