逃げる
朝から霙もようの天候になっていた。
ここ数年暖冬が続いていて今年も例外ではなかったが、ときおり寒い日がやってきて人々をあわてさせた。
吉村は朝一番の速達を配達し終えて、次の便に備えていた。濡れた合羽は腰高の丸椅子にかけてある。室内の暖房によって少しずつ乾きはじめていたが、床に滴った雫がその染みを拡げていた。
窓外に目を転じると、近くを通る首都高速道路の入口がスキーのジャンプ台のようにスロープを描いていた。
今でこそ慣れてしまったが、大きな窓ガラスに切り取られた都会の風景は、当初吉村に戸惑いと苛立ちをもたらした。八代の海と田園が奏でる柔らかな音色に育てられてきた男にとって、無機質の展示物は夾雑物以外のなにものでもなかった。
コトッと音がして、ビル街を担当する佐藤が席を立っていった。
隣接する郵便課での速達便の区分が終わったらしく、それを抜き出しに向かったのだ。手空き時間には、いつも本を読んだり、ぼんやりと物思いにふけったりする吉村と違って、佐藤は絶えず注意深く周囲の状況を把握していた。
たとえば、区分台に遮られた裏側の様子。小さな窓の奥で準備される書留交付のタイミング。休憩室における仲間の動向など、吉村なら気にも留めないことを拾い上げてくるのだ。
このところ、佐藤とは速達の担務でいっしょになることが多かった。不祥事で辞めた芹沢のあとを、ベテランの佐藤の起用で埋めていた。
人員配置の偏りがあの事件の引き金になったと指摘されてはいたが、おいそれと刷新できる体制はできていない。なぜなら、少なくとも通常配達三区分の区域を熟知していて、かつバイクに乗れる者でなければこなせないのだ。そんな条件をクリアして任せられる職員は、当面限られていたのである。
佐藤に続いて吉村も立ち上がる。自分が配達すべき区域の郵便物を、区分函から抜き取る。早朝便と比べるとかなり物数が増えている。私信とおぼしきものはわずかで、事務所あての中型封筒が目に付いた。
「まいったねえ。ゆんべはかあちゃんに泣かれてアレアレと思ったに、今朝はまたこの涙雨だもんねえ」
すれ違ったとき、佐藤が呟いた。何があったのか、自然に口を衝いて出たぼやきのようなものであった。
会社の受付は午前九時からが多い。当然、速達もその時間帯の便に集中する。佐藤の押す台車の小型ファイバーには、溢れるほどの郵便物が載っていた。
「うちのかあちゃん、こう言うんだよね・・・・」席に戻って道順組み立てをしながら、なおもぼやく。「あんたの月給がもうちょっと高ければ、タカユキに妹を産んでやれたのにって。テレビのドラマを観ていて急に泣き出すんだから、お手上げですよ。吉村さん、郵便局員ってこんなに悲しい存在だったんですかねえ」
どこまで本気なのかと、吉村は笑いながら佐藤の愚痴を背中で聞いた。
「ぼくも、その一人ですよね」
「・・・・タカユキってのはね、うちの一人息子なんだけど、三十になるのにまだ独り身なんですよ」
「三十歳なんて、まだまだでしょう。結婚が遅いのは近頃の常識ですから」
「いやいや、うちのかあちゃんは、縁談が来ないのはわたしのパチンコ狂いのせいだと非難するのです」
「・・・・・・」
「息子もね、自分で彼女をみつけてくる甲斐性があればいいんですけど、わたしに似ちゃったみたいで・・・・」
「そういえば、この間パチンコで三万円儲けたって本当ですか」
旧聞に属することだったが、知ったばかりのように振り向いて訊いた。
「えっ?」
一瞬、右手が後頭部を押さえた。手柄を思い出したのか、背中が嬉しそうに揺れた。「・・・・あのときは、機械が壊れたかと心配になりましてねえ」
配達する順番に郵便物を組み終わったとき、ちょうど書留交付の声がかかった。数人が先を争うように立っていき、吉村の前には佐藤の背中があった。
近くで見ると、うなじに髪がかぶさっている。どういうわけか、郵便局員には身だしなみに無頓着な者が多い。佐藤の言うとおり給料は安いかもしれないが、整髪代に事欠くほどではあるまいとおもうのだが。
服装だって、帽子、官服、シャツ、ネクタイ、靴まで貸与され、それこそ頭のてっぺんから足の先まで身銭を切る必要がないのに、なぜかピシッとしていない。毎日たくさんのお客さんと接するのに、これはどうしたことか。
一番の理由は羞恥心の欠如であろうとおもう。永年に亘って公務員というネズミ色の意識に馴らされてきた結果、色も形も一様な壁として生きることを無意識のうちに認めてしまったのだ。
「書留、何本ありました?」
吉村が問う。
「打ち止めになるほど出やがった・・・・」
おもわず噴き出した吉村に、佐藤はことさら難しい顔をこしらえて自身の平静を装った。
ちょっとひねた彼の性格は、善くも悪くも東北人そのものだった。控えめに見えて押しが強く、いつの間にか地歩を築いている。
吉村は、一つの笑いを繰り返して周囲の者を辟易させる郵便逓送会社の運転手を知っているが、佐藤の場合、同じ粘っこさでもポスト取集の運転手よりはアクが少ないような気がしていた。
「いいよな、佐藤さんは」
笑ったあとで、吉村が呟いた。「・・・・ぼくの方は、ちょっと嫌な郵便物が出てしまいました」
「へえ、どうしたんかいな」
振り向いた佐藤に、吉村は順付けの済んだ書留の中から一通だけ抜き出して、かざして見せた。
「トクソウ?」
「はい」
それは『特別送達』と表示された薄茶色の郵便物である。裁判所から訴訟関係者に出頭日等を知らせるもので、封筒の裏に同じサイズにたたんだ白い送付書が付いている。封をするとき、書類も挟んでホッチキスで二箇所止めたものである。
「この住所だと、タオル屋さんじゃないスかね」
吉村は、繊維関係の問屋が並ぶアーケードを頭に浮かべていた。
有名なベビー用品専門の店舗が中心にある商店街の一郭だ。その端の方でいつも通路にはみ出すほど商品が積んである古い店が、配達先のはずだった。
「あそこの店、半月ばかり前に先代の社長が死んだんでねえの? 若旦那が浮かない顔をして、ボーっと歩いているのを見かけたよ・・・・」
「ほんとですか?」
吉村はあらためて佐藤の注意力に舌を巻いた。「やだなあ。ぼく、この特別送達というのが嫌いなんですよ」
「報告を書き込むのが面倒だけど、とにかく行ってみなくちゃあ」
吉村をうながすように言った。
雨は止む気配をみせなかった。早朝の冷え込みが緩んで、シャーベット状だった路面は黒っぽく色を変えている。
吉村は長靴を履き、合羽に腕を通し、ヘルメットを提げ、ファイバーと鞄を台車に載せてエレベーターに向かった。
地下一階のバイク置場では、すでに何人かの職員が出発準備をしていた。
吉村はヘルメットを被り、顎のベルトをしっかりと締めた。少し緊張している自分を意識した。
問屋街に入ったのは、出発してから四十分ほど経ったころだった。
アーケードの始まる一番端の店が、そのタオル問屋だった。確かめるまでもなく、きょうはシャッターが下りたままになっている。屋号を大書したペンキの白が、長年の汚れで灰色になっていた。
他の店はそれぞれに商品を並べ終えている。陳列台、ショーケース、移動式ハンガーと、さまざまの道具を使って道路まではみ出していた。そんな中、吉村のめざすタオル問屋からはカタとも音が聞こえなかった。
吉村はエンジンを止めたバイクを歩道の端に停め、シャッターの前に立って呼び鈴を探した。だが、ブザーらしきものは何もなかった。仕方なく拳でシャッターを叩いた。応答はなかった。
諦めて戻りかけたとき、となりの寝具店から男が出てきた。頭の禿げ上がった六十過ぎの店主だった。
「裏へ回ってみな」
「ウラがあるんですか」
「二階に居るはずだよ」
「ずいぶん呼んだんですが」
「来るのは債権者ばかりだから」
「つぶれたんですか」
「潰れたんだよ。居留守をつかっているのさ」
刺のある言い方だった。
吉村は困惑の表情を浮かべてその場を離れた。
いったん商店街の端に戻って、タオル問屋の裏手に回った。どぶ川のコンクリート防壁に接した狭い通路で、人ひとりがやっと通れるぐらいの幅しかなかった。
商店の裏側の並びは、どこも劣悪な環境に置かれていた。長屋風に続く建物のところどころに表側へ出る通路が切られているが、店の活気とは異なり生活の場の風通しの悪さは容易に想像できた。
吉村はタオル問屋の勝手口の扉を叩いた。同時に大声で姓名を呼びたてた。返事はなかった。腹立たしさが湧いた。こんな氷雨の日に、じめじめして滑りそうな裏口に回って、空しく声を張り上げている自分の運命に腹が立った。
普通の速達なら郵便受けに配達すれば済むのだし、書留でも不在配達通知票を入れておけば一応の完了になる。それなのに『特別送達』ときたら、通知をしておいて相手にゲタを預けるというわけにはいかないのだ。
受領印をもらって確実に送達した旨を報告するのが原則だし、相手が受取りを拒絶した場合でも差出人に戻すわけにはいかないのだ。
「クソッ、なんとかしてくれよ」
吉村はうなりながら真鍮のノブに手をかけた。
苛立ちのままにガタガタと揺すった途端、彼は危うく後ろにすっ飛びそうになった。予想に反して扉が開き、勢いあまった吉村はコンクリート壁に寄りかかってやっと体勢を立て直したのだった。
ほっとすると同時に、次の愕きがやってきた。
扉が開いて流れ出た暗闇の奥に、獣のようにこちらを窺う眼光を見出したのだ。
「あっ」と声をあげた。闇に押し流されそうな錯覚に狼狽したのと、密かな凝視に気付いたのと、二重のおどろきだった。
目が慣れてパジャマ姿の痩せた男が浮かびあがった。生気のない表情が亡霊のように静止していた。
「すみません」
吉村は謝った。「・・・・書留が来ているのですが、印鑑をお願いします」
「印鑑?」若い店主は怯えたように口の中で反芻したすえ、「印鑑なんてもう捺しません」
吉村は緊張の頂点で、いま店主が陥っているだろう困難の一端を理解できたような気がした。
「すみません、サインでもけっこうなんですけど」
「それ、どこからの郵便?」
「裁判所です」
正直に言うしかなかった。
「みんな、グルになりやがって」
タオル問屋の若主人が吐き捨てるように言った。
「すみません、わたしはただの郵便屋ですから・・・・」
「そんなもの受け取りませんよ。帰ってください。すぐに帰ってください」
ああ、嘆きの声が出る。記憶が確かならば、相手が受取りを拒んだとき、送付書を切り取って封筒をその場に差し置いていいはずだ。頭では理解していても、実際の行動に移すのには勇気を要した。
「すみませんが・・・・」
吉村は再び声をかけた。「これは特別送達といって、裁判所から付託されたもので、ぼくたちが持ち帰るわけにはいかないものです。ここに置いていきますから、承知しておいてください」
勝手口の板張りの床に置いた。
「待て」と、男が手を伸ばした。
吉村は一歩あとずさった。
「待って!」と、床の上から封書を取り上げて立ち上がる。
吉村は半身になって身構えた。いつでも逃げ出せる体勢である。
「待ってくれ・・・・」
悲痛な声だった。
吉村は顔をしかめて、その声に耐えた。郵便外務員は、単に配達をすればいいはずなのに、否応なく他人の事情に巻き込まれることもあるのだ。
「お願いします」
吉村は後ろ手に扉を閉めて路地に出た。
「逃げるのか」と、追いすがる声がする。一瞬怯みかけたが、足早に狭い通路を走り抜けた。
バイクに戻り、急いでキイを差し込む。手の甲に血が滲んでいる。コンクリートの護岸壁にぶつけたのか、かなり大きな擦り傷である。
腹立たしさが更につのり、アーケードの鉄柱を蹴飛ばしてやりたい衝動に駆られた。思いとどまったのは、やはり公務員の壁のせいだった。あえてもう一つ付け加えれば、『三十六計逃げるに如かず』。彼を可愛がってくれた祖母の口癖が甦ったからかもしれない。
怯んだ傷は、もう癒された。手順通りにやりおおせたことは、プロとして評価されるべきなのだ。この際、逃げることが恥ではないのだと、胸の内で念を押していた。
局に戻ると、佐藤が呆れかえった表情で吉村を迎えた。
「ずいぶん時間がかかったでねえの?」
「てこずりましたよ」
「やっぱり、あのトクソーかね」
「一軒で三十分以上かかりました」
「渡してきたの?」
「拒絶されたんで、差し置いてきました」
「あれ、まあ」
ご苦労さまというように、佐藤が小さく首を振って立ち上がった。
時計を見ると、もう十一時を回っていた。通常配達より早い時間帯に設けられた昼食休憩まで、あとわずかだった。
午後にもう一便、先行便と呼ばれる配達がある。それが終われば、きょう一日の勤務はほぼ完了する。
早番の職員にとっての最終便が済んだあと、通常配達区の手伝いをするようになったのはごく最近のことだ。
「このごろは煩くなったな」
顔を合わせると愚痴が出るのは、郵政職員への風当たりが強くなってきたことを肌で感じているからだ。
まだ少数派だが、郵政民営化などと気炎をあげる者もいる。全国津々浦々までサービスが行き届いている郵便局を、民間に委ねてもいいなどという国民は居るはずもないと考えるのだが、日ごとに締め上げてくる圧迫感が微かな不安を呼び覚ますこともあった。
勤務時間が過ぎたあと、吉村は最上階の喫茶室に立ち寄ってコーヒーとチーズケーキを注文した。体の隅々に疲れが残っていて、とてもこのまま帰る気分になれなかった。
吉村は、カウンターの横にあるピンクの公衆電話から久美に電話を入れた。<ふくべ>の店用電話とは別のプライベート番号である。開店前の仕込みと準備で忙しい時間帯だから、誰も出なくても当たり前とおもっていたら、「ハイ」と響きの好い声で久美が出た。
「ごめん、忙しいんだろう」
この日はずいぶん、この種の言葉を口にした気がする。謝るほどのことをした覚えはないのに、つい出てしまうのだ。
「あら、ちょうど好かった。お渡ししたいものがあるから日曜日あけといて」
いつものことだが、呆れるほどあけすけなデートの申し込みである。吉村を年下とみて軽んじているわけではない。鈴を転がすような声とともに、無邪気さは天性のものなのだ。
吉村は元気が戻るのを感じた。泉が湧くように、臍の下から湧き上がってくる。天衣無縫の久美に触れて、先刻までの煩悶が癒えた。仕事にせよ、人生の処し方にせよ、後ろ向きはよろしくないと確信できる。『特別送達』で逃げたことを無理やりプロの技などと繕うより、久美との結婚をめざして積極的に行動すべきではないかと思いなおした。
「じゃ、日曜日の十一時にマリオンの前で・・・・」
デートの日時も場所も筒抜けである。
ふと視線を上げると、喫茶室の女主人と目が合った。しょぼくれていた吉村のあまりの変わりように、女主人もおもわずニイッと口元をほころばせた。もしかしたら、二人の娘をもつ彼女も、自分がおんなであることの自信を取り戻したのかもしれなかった。
(第四話)
(2007/01/24より再掲)
田舎のように狭い地域だと債権者の取り立てなどが目立って特別送達が配達される前に騒ぎになっているでしょうね。
取り立て屋の存在が社会問題になったことがありましたね。
家族もいたたまれずに逃げ出す、地上げ屋の嫌がらせと一緒です。
パチンコで生計を! それはすごい。
前に小説に書いたパチプロは腕を腫らしていましたが、その後の機械ハセットして微調整するだけで腱鞘炎になる心配はなかったんでしょう。
でも長時間座って凝視しているのは大変ですね。
新装開店の風景を思い出しました。
特に、狭い田舎だと、その悲惨な状況も既に耳に入っているでしょうし。
パチンコは学生時代に生活をかけてやっていました。
新装開店は早く並んでいい席を確保し、毎日、深夜まで辛抱強く打っていました。(-_-;)
ニュースでやってるのを見ました。
郵政民営化以来初めての赤字なんだそうですね。
年賀状やダイレクトメールも激減し、私信など老人がたまに出すぐらいかな?
おっしゃる通り手紙というツールは時代に合わなくなったのかもしれませんね。
<ポストに投函した瞬間から生まれるあのワクワクするような時間など、もう古いのでしょうかね。
<相手方にもう届いたかな、、、読んでどう感じているだろうかと、、、。>
この感覚を味わえないとなると寂しいです。
蒸気機関車から電車になった時の気持ちを思い出しました。
あちこちに設置されているポストの中には、一日1通しか利用されないのもあるとか、、、用件だけならメールで瞬時に伝えることのできる時代には、手紙というツールはもう古いのでしょうかね。
ポストに投函した瞬間から生まれるあのワクワクするような時間など、もう古いのでしょうかね。
相手方にもう届いたかな、、、読んでどう感じているだろうかと、、、。
そんなそこはかとない感覚など、人をひきつけなくなったのかなあー?
ぼくはパチンコの経験が少ないのですが、フィーバーとかいいってあふれるほど玉が出ることがあるんでしょう?
テレビの深夜番組で見たことがあります。
お店などに置いてあったピンクの公衆電話は今はないんでしょうね。
在ったらかけたくなりますね。
いつもコメントをありがとうございます。
パチンコでの勝ちは嬉しいですね。
カウンターにあるピンクの公衆電話というのが懐かしいです。
今はあんまりないのでしょうね。
ここに登場する内容は約20年ほど前のシステムで、現在はどうなっているかわかりません。
当時に時代を遡ってみればたぶん間違いではないと思います。
いつも丁寧にお読みいただき感謝申し上げます。