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猫は偉大である
猫は死期を悟ると、いつの間にか姿を消す。
子供のころ飼っていたブチもそうだったし、人から聞く話でもやはり行方をくらましたまま探し当てるのは大変難しいようだ。
衣食住のすべてを世話になりながら、恩恵をこうむった飼い主には挨拶なしである。それどころか愛情まで独占していながら、なんら見返りなしにバイバイするのである。
わたしの最も好きな作家内田百は、「ノラや、ノラや・・・・」と失踪した野良猫を探し回り、新聞に折り込み広告までして捜索を続けたのである。
小説『ノラや』は、失踪二週間後の顛末を描いたものだが、思い出しては声を立てて泣くほどだから、その溺愛ぶりは半端じゃなかった。
犬はほんとに可愛いが、ある意味大変わかりやすい。
そこへいくと猫は一筋縄ではいかない動物だ。膝の上で撫ぜられ目を細めているが、いつまでも飼い主に迎合しているわけではなく、しばらく経つとプイと席を立ってしまう。
義理も人情も関係なく、自分の行きたいところへ行ってしまうのだ。
失踪したからといって、死期を迎えたわけではない場合もある。
二、三日居なくなり、やきもきさせた挙句に帰ってくることもある。まあ、今風に言えばプチ家出といったところで、その理由も目的も期間もわからないから出て行かれたほうは心を痛めて呻吟する。
百先生の場合も、今日は帰るか明日には戻るかと161日目まで望みを抱き続け、ついに「或いはもう帰らないのではないかと思った」と涙しながら自分に言い聞かせたわけだが、これほど人間の気持ちを翻弄する動物は他にはいないかもしれない。
知り合いの家のお嬢さんは「猫は魔物ですからねえ」と悟ったようなことをいう。
自分がマンションの一人暮らしで、何とかいう貴婦人みたいな猫に支配されているものだから、猫の魅力について語り始めると人みな虜になって当たり前みたいに結論づけるのである。
判らないから気にかかる。
人間と付き合い始めて何千年、エジプトの古代王朝時代から付き合ってきたはずなのにまだ正体不明である。
決して飼い馴らされることのない猫族は、ある意味ひとの心の中の闇みたいなものかもしれない。
小説なんかも、失踪した猫を探しまわる焦燥の気持ちなしには面白みがない。
好きな作家は何人か居るが、内田百を措いて一番といえる人は他に居ない。別に死ぬまでノラを探していたからというわけではなく、生も死も、自分も他人も分け隔てなく分子構造レベルに還元してしまう文章がたまらなく魅力的なのだ。
よって「猫は偉大である」
精神分析で判ってしまう人間の闇など、猫に比べりゃ他愛もない。
写真は失踪した猫が変容したと思われる氷柱と、わかりやすい犬、そして未だ研究対象外の豚である。
内田百に事よせながら、さらりと「どうぶつ物語」を開陳してくれましたね。読むほどに身に覚えがあり、ぞくぞくしました。
その猫族に比べ、犬族のなんと単純明快なこと。当方は何匹か飼ったことがありますが、そのほとんどの心理は読めましたし、そのほとんどはわが家の縁の下で、これ見よがしに亡くなりましたっけ。