小布施再び・『高井鴻山記念館』を観る(2)
高井鴻山の揮毫による書や幟は勇壮で、地元の民衆を元気づけるシンボル的な意味を持っていたのではないだろうか。
神社の鳥居や寺の山門を背景にはためくさまを想像すると、見上げる人々の心に勇気と希望がふつふつと湧き上がる気がするのである。
その裏づけといおうか、いつも民衆の側に目を向けていてくれる鴻山への信頼が感じ取れる。
北信州の各地に奉納され、現在も大切に保存されている状況は、書を抜きにしては鴻山を語れないことを如実に示している。
それにしても、画像に見る巨大な筆はいかにも使い込まれている。
肖像画に描かれたおとなしそうな風貌からは想像もつかない、大胆な筆づかいと精力的な墨跡が印象的である。
むずかしい折衝や多彩な交友関係のあいまを縫って画を描き、書をなしている。ことさら遊興に時間を費やすことなく、芸術・文化活動にたずさわることが悦びだったのであろう。
鴻山もそうだが、あの時代をリードした人びとの向上心が伝わってくる。
よく言われることだが、明治維新を成功させた起爆剤として坂本竜馬をはじめとする二十代の若者パワーがあった。
勝海舟、西郷隆盛、大久保利通といった上の世代の力も欠くことは出来なかったが、彼らに伍して迸る情熱を内に秘めながら沈着冷静に時代を動かしていった事実は、現代の若者像と比べて驚嘆に値する。
不幸にも暗殺され、黎明期の活躍が夢と化した者も少なくないが、そのまま生きていればどれほどの大仕事をしたであろうかと惜しまれる二十代も、数多く輩出されていたのである。
寺子屋での規律ある教育、意欲に満ちた師の教え、しつけに始まりしつけに終わる人格の形成、論語の暗誦による人生規範の吸収、武術習得を通しての心身の鍛錬・・・・。
幼いうちからしっかりしたバックボーンを育てられているから、二十歳に達するころには明快な人生観、世界観をもって己の使命を自覚することが出来たのであろう。
高井鴻山が晩年、教育に情熱を燃やし力を注いだのは、新時代における人材育成の重要さを深く認識していたからに違いない。
彼自身の心の支えとなった陽明学から逸脱することなく、「国利民福」の信条をつらぬき、国の安泰と民衆の幸福を願った一生だった。
余談ながら、高井家(市村本家)は浅間山麓から小布施に移住し、北信越きっての豪農商となり、信州はじめ、江戸、京阪北陸、瀬戸内まで商圏とする商いをしたという。
ふと思い出したが、軽井沢でも御代田でも市村という姓を見かけることが多い。まさに佐久のあたりは浅間山麓だから、『脩然楼』の看板にあった説明どおり、どちらかの市村さんが遠い親類にあたるのかもしれない。
なお、前回、鴻山の人間形成に「飢饉の折に米倉を開けて民衆を救った親の精神を受け継いで・・・・」と書いたが、正確に記すと「鴻山の祖父作左衛門は、天明の飢饉に際して倉を開き、それまでに築いた巨万の富を困窮者の救済に当てた」ということらしい。
早とちり、勘違いは得意技で、「また、やっちまった」と頭を掻いているところである。
どこか怪しいところがあったら、ぜひコメント欄でご指摘ください。
(つづく)
どの地にもそれぞれの場所で自分の役割を知り、黙々とそれを果たした人がおられるのですね。
多分人間社会を最も土台のところから支えるのはそういう意志の力なのでしょう。
自らが報いられることを期待しない「絶対意志」とでも呼ぶべき心の力・・・そういうものをこのブログから感じさせられました。
いまの時代は、報酬や見返りを期待する意志ばかりが目立つだけに、彼の時代にこういう人の存在を教えられるとわが身を省みて恥じ入るばかりです。
それにしても筆といい文字といいストレートで力強いですね。
次回からも楽しみにしています。知恵熱おやじ