(緑の闇)
霧男は、自分の思いに気づいた瞬間、居ても立ってもいられない焦燥を覚えた。
十七歳になった秋のことだった。
兄嫁の後ろ姿を見ると、家の中でも山仕事の最中でも息苦しくなるのだ。
長男の雲雄とは、ちょうど十歳年が離れている。
去年長男のもとへ嫁に来た花余とは五歳の隔たりがある
花余が来たことで、霧男の心は落ち着きを失くしてしまった。
(なんで、こんな山奥に来た?)
言葉もなく、放心する様子が見られた。
誰の目にも明らかな挙動の変化に、家族は危惧をいだいた。
この調子では、霧男がいつ不始末を起こすか分からない。
数軒の家が川沿いの平地で肩を寄せあう集落から、さらに奥まった場所にある一軒家だ
騒ぎが起これば、村人との付き合いも苦しくなる。
まだ顕れていない諍いへの危惧が、家長の不安を増幅させた。
噂になる前に、村を離れさせた方が賢明ではないか。
「霧男、おまえ山を降りろ!」
父親が申し渡した。
この地方の慣習では、長男以外は労働力として十年間は無条件で使役できる。
当てにしていた次男だったが、あっさり手放す決断をした。
「なんで?」
霧男は、おどろきの表情をしたが、逆らうそぶりは見せなかった。
「ここは狭い。・・・・あの山を越えていけば、賑やかな都会があるらしいぞ」
飯が存分に食えて、楽しいことがいっぱいある街の話は、霧男も薬売りの男から聞いていた。
しかし、父親の本心が最初のひと言にあることは隠しようのないことだった。
(ここは狭い、ここは狭い・・・・)
父のことばが、頭の中で木霊のように響いた。
鉄砲撃ちでもある父は、壁のようにそそり立つ向かいの山を猟場にしていた。
熊の足跡が増えるとタメ息をつく。
「ここは狭い。・・・・この数は養えない」
コロコロしたこぐまが樹の洞から転がり出てくる早春は、とくに頭を痛める。
可愛さを感じる前に、親離れしていく獣への心配で心が引き締まるのだ。
(早く別の餌場を探すんだ。今年の実りは少ないぞ)
こぐまに語りかける。「・・・・親に甘えられるのは、せいぜい一年かぎりだ」
なぜか結実の少ないどんぐりの様子に、枝を見上げて顔を曇らすのだ。
山の恵みは、年によってバラツキがあるものだ。
栗や橡の実など、熊やカモシカと争ってでも確保しなければならないこともある。
山暮らしに慣れた一家でも、こころの休まる暇はない。
霧男にも、父の言葉の意味はよくわかる。
この山は、人のテリトリーとしても狭すぎるのだ。
花余がひとり増え、食い扶持の分け前が少なくなる。
しかし、ほんとうの悩みは、食い物ではなく花余自身なのだ。
(女は美しすぎるのも罪だ・・・・)
父親の目には、なすすべもない霧男が哀れであった。
山の夜明けが訪れる前に、風呂敷包みを背負った霧男が谷から消えた。
遍路と同道し、糊口を凌いだこともあったようだ。
海峡を渡り、熊野で木挽きになった。
腕っ節の強さが、親方の目に留まったのだ。
川の上流から落とされてきた筏の材が、新宮で材木問屋に買われていく。
堺から回漕されて、名古屋や東京まで運ばれるのだ。
地元で使われる板材の中には、霧男の挽いた杉や檜もある。
素封家のほか、神社仏閣も少なくない。
中でも、熊野神社に使われたという噂は、霧男の心を鼓舞するものだった。
(おれの挽いた板が、あの本宮さんに・・・・)
信仰心より先に、職人の野心が燃え上がった。
お盆を機に、霧男は数日間の休みを取った。
親方の許可をもらい、行き先も明かさず熊野を離れた。
貯めた給金を懐に、大阪辺りにでも遊びに出たのかと思われた。
一度は見たいと言っていた、出雲大社に向かった可能性もあった。
夜、雲雄は雨戸を抜けてくる奇妙な気配に目が覚めた。
花余を起こさないように、そっと布団を抜け出した。
見上げる空に星が撒かれている。
冬の輝きほどではないが、青白く光っている。
掘っ立て小屋の厠には行かず、草むらに立小便をした。
放尿しながら目配りするのは、獣が潜んでいないか万が一の用心だ。
わずかに見上げる対岸の闇に、じっと動かない二つの目があった。
テンやイタチとは違う、大型の獣に思えた。
(しかし、熊ではないな?)
山のおやじは、落ち着きのないことで知られている。
一方、ニホンカモシカは、岩の上でいつまでも動かないことがある。
(おそらく、あいつだろう・・・・)
凝視するのは、ほんとうに目が悪いからか?
たとえ相手が獣でも、覗かれる立場の雲雄は居心地が悪かった。
布団に戻ったものの寝付かれなかった。
寝巻きの裾をはだけた花余の太ももが眩しかった。
花余を得た悦びと、底なしの不安が、霧男の去ったいまも時どきぶり返した。
眠れないまま、花余の太ももに噛り付いた。
「うーん、また?」
眠りに引き戻されながら、嫁は下半身を夫のまさぐりに任せた。
夜明けとともに、昨夜カモシカの凝視を感じた辺りを、実地に確かめる気になった。
立小便の位置に立って、対岸の緑の壁を仰ぐ。
あのあたりと見当をつけた雑木の根方を探り当て、獣の臭いを嗅ぎまわった。
下草に絡む一筋の毛も見当たらなかった。
雲雄の住まう方向をしばらく見ていたとすれば、糞のひとつも落としたのではないだろうか。
だが、用心深い潜伏者は、何の痕跡も残さなかった。
その夜、再び対岸からの眼ビカリが見られた。
雲雄は、父の猟銃を無断で持ち出した。
(狐火の一種か?)
妖光に向かって、ダダーンと撃った。
ギャーッ。
怪鳥が森から飛び立った。
怯えた無数の鳥が、いっせいに羽ばたいた。
仰向けに転がった雲雄のうめきが、闇を縫って山肌を這った。
飛び起きた家族は、銃身が破裂した銃把を抱え、血まみれで斃れている雲雄を発見した。
(なんだ、修理に出す矢先だったのに・・・・)
筒先の亀裂に気づいた父親が「触るな!」と張り紙したのを無視して、勝手に弾をこめたらしい。
「夜中になんで銃を撃ったのだ?」
答えることなく、雲雄は死んだ。
熊野に戻った霧男は、いっそう木挽きに精を出した。
半年もすれば、手がかりを得て親が呼び戻しに来るだろう。
それまで花余は、山奥にとどまるだろうか。
もともと継母に追いやられて雲雄の嫁に来た花余だから、いまさら戻るつもりはないだろう。
「おれは都会の生活が好きだ」
駄々をこねるぐらいの権利はある。
「いや、おまえにはどうしても帰ってもらうしかないんだ」
家を継ぎ、狭い畑と山を守って、ご先祖様からの暮らしを繋いでもらいたい。
きっと頭を下げていうだろう。
「花余を後家にするわけにはいかん。おまえがもらってくれ」
音信不通の状態から、どのように所在を気づかせるか。
霧男は、毎年越中富山から廻って来る柔和な男を、頭に思い浮かべていた。
街の賑わいを教えてくれた話好きの薬売りが、きっと消息を伝えてくれるに違いない。
「ついこの間まで子供だと思っていた息子さんが、えらい腕利きの木挽きになられたようですなあ」
それほど先の話ではない。
もうまもなく、置き薬の箱を担いで、あの男が廻って来る季節だった。
(おわり)
今回も怖い話でした。
6月17日の『どうぶつ・ティータイム』(97)にも投稿していただいているのを見過ごしていました。
劇画家・旭丘光志のナマの仕事ぶりを伝えていただき、想像とかなり重なるところが多いのでびっくりしました。
池袋に住んでいたことは資料で調べておりましたが、喫茶店の名前が<南蛮>というのは初めて知りました。
遅ればせながら、お礼申し上げます。
そこに窪庭さん流の手法が垣間見えるようでした。つまり、読み手に疑問や余韻を残し、その回答は表さないとか。だからこそ惹き込まれるんだとか。
なんでも事細かに書いてしまう小生、とても及ばない手法です。
ハハー・・・この新しいシリーズの狙いが視えてきたような気がします。
「奇譚」の復権?
昔は兄弟のどちらかが死ぬとその嫁を残った方が貰い受けるようなことはざらにあったようですね。
嫁は家にとっての重要な働き手であったこともあったからでしょうが、さらに根底には近親相姦に重なり合うようなどろどろした情念が潜んでいたようで・・・。
なんかぞくぞくします。
(くりたえいじ)様、(知恵熱おやじ)様、コメントありがとうございます。
一週間ほど留守をしておりまして、御礼が遅れました。
短いものだと省略、暗喩、余韻など、くりたさんのおっしゃられる方向になるようです。
また、知恵熱おやじさんご指摘の「奇譚」の復権、いわれてみれば自分の読書体験など振り返っても、以前から憧れていたような気がします。