どうぶつ番外物語

手垢のつかないコトバと切り口で展開する短編小説、ポエム、コラム等を中心にブログ開設20年目を疾走中。

<おれ>という獣への鎮魂歌 (42)

2006-06-26 12:18:02 | 連載小説
 北千住で東武伊勢崎線に乗り換え、小菅駅に着いた。
 プラットホームの時計は、八時少し前を指していた。前回の経験を踏まえて少し早めに家を出たせいか、ここまでの行程はうまくいっていた。
 あとは、ゆっくりと歩いていけばいい。おれの気持ちに余裕が生じた。
 おれは、ホームに立ったまま大きく息を吸い込んだ。湿った空気が、肺の中に入ってきた。
 雨足は、衰える様子を見せなかった。
 トップグループを形成するマラソン選手の一団が、激しく競り合いながら駆け抜けていく足音のように、低気圧が荒い息遣いを残して通り抜けようとしていた。
 時おり吹き込む雨が、おれの足下を濡らした。おれはベンチのあたりまで後退りして、雨に煙る風景を眺めた。
 見通しの好いプラットホームからは、線路を囲う塀越しに、東京拘置所の建物が見渡せた。広い敷地のあちこちに、さまざまな種類のコンクリート製建造物が置かれている。管理棟もあれば、病院や、職員用住宅もある。背丈の高いものもあれば、低いものもある。見る気はなくとも、おおよその配置が見て取れて、意味もなく後ろめたさを覚えさせる風景となっていた。
 遮蔽するにしては、中途半端な高さの塀である。しかし、全景をあからさまに見せようという魂胆もない。どっちつかずの鉄道管理者の迷いをよそに、黒く変色したコンクリート塀の上から、広大な敷地の一部が覗き見されているといった趣であった。
 立ち並ぶ建築物の真ん中に、ひときわ巨大な収容者用の建物があり、そこから離れた右側の位置に灰白色の中央監視台がそびえている。
 旧小菅刑務所時代からのシンボル的存在であり、周囲に低層棟を配して鳥が羽ばたくさまを模したとされている様式は有名だった。
 この辺りのエピソードは、設計者のロマンと共に長く語り継がれ、おれでさえいつしか聞き知っていた。
 しかし、おれの位置からは、言い伝えられている設計者の意図を、確認することはできなかった。
 降りしきる雨の中で、建物たちも所在なげにたたずんでいるように見えた。
 ひとしきり、雨の東京拘置所を眺め渡し、ミナコさんはあの辺りかと見当をつけた。一度面会に訪れていると、多少の勘は働くものらしかった。
 階段を降りて地上に立つと、急に視界が狭められた感じがした。前回は帰り道だったせいか、まったく気が付くことのない感覚だった。
 殺風景な塀ではあるが、寄り添うように歩いていくと、ほどなく車道に突き当たり、首都高速道路を頭上に戴くことになる。脱走しても、決して乗り移ることの出来ない高さを、これ見よがしに行き交うクルマの爆音とタイヤの擦過音が、おれの体に降りそそいできた。
 正門を横目に、もう一度左に曲がると、長い長い塀が続いていた。
 塀の中には、樹木に囲まれた住居棟が並んでいて、その外側には由緒ある赤レンガの塀が伸びている。雨に濡れて、ひときわ色を濃くした煉瓦の落ち着きが、わずかに街らしい気分を味わわせてくれた。
 初めて面会に訪れたときと、何も変わっていないはずなのに、おれの向かう方向や、気象の変化、季節の移り変わりによって、ずいぶん違った印象を与えられた。
 幅広く護岸工事を施された荒川は、強い雨風によって川面を波立たせていたし、古い家並みに遮られたあとも、鼻粘膜を刺激する水の匂いをともなって、川の存在を意識させていた。
 前回手探りで進めた手順を、おれは滞りなく実行した。
 面会受付所も、検査室も、もう恐れることはなかった。
 唯一、エレベーターホールに向かう通路だけは、今回も馴染めない感覚が残った。映画の『死刑台のエレベーター』が頭に浮かぶが、おいおい、それは全くのこじつけだろうよと、自分であっさり否定している。
 どちらかといえば、閉所恐怖症に近いのかもしれない。通路の長さが不安を呼ぶのだ。それは、おれの経験によってもたらされるものではなく、もっと原始的な反応なのだろうと、無理やり理由付けをした。
「お願いします」
 面会整理表を差し出して、係官の指示を仰いだ。今回は、二番の部屋が割り当てられた。
 面会室に入って、ミナコさんを待つ間、おれは目を閉じた。たちまち、部屋によどんだ弱気な空気を遮断することができた。
 どういう風の吹き回しか、このところ評判のユリ・ゲラーの顔が眼裏に浮かんだ。おれは、テレビこそ見損なったが、新聞や週刊誌でも未だにスプーン投げの話題が取り上げられている。日本における超能力少年たちの輩出も・・。
 気配を感じて、目蓋を開くと、そこにミナコさんがいた。絹のブラウスに黒のタイトスカートを身に着けていた。
「ああ、おはよう」
 おれは、遅れて目を覚ましたときの、幸せな倦怠感のなかにいた。
 人目を避けて泊まった、いくつかの旅荘の光景が甦った。おれは、夜通しミナコさんを愛して、朝方眠りに落ちることが多かった。そんなおれの目覚めを、ミナコさんはいつも覗き込むようにして眺めていた。
 時には、おれの浮上を待って、頬を寄せてきた。すべすべした皮膚の滑走と、ふくよかな肉付きの吸着感が同時に襲ってきて、涸れたはずの下腹部にむずがゆい再生の兆しを感じたこともあった。
「ミナコさん、それって金沢八景のときのものだよね」
 おれが笑みを浮かべると、ミナコさんも暗号のような微笑を返してきた。
 あれは、いつのことだったか。おれの我が儘で、ミナコさんに職場のようなスタイルでデートに来てもらったのだ。
「ありがとう。称名寺の庭園をどうしても見たくて、お願いしたんだよね」
「感激したわ、あの時。朱塗りの橋が木々の緑にのみこまれて・・。運慶の仁王像が、すごく印象的だったわ」
 ミナコさんは、秘書風のタイトな容姿を楽しむおれの魂胆に、果たして気付いていたかどうか。入口の赤門や、反橋、平橋の鮮やかな朱色、点在する多彩な樹木の深緑、その風景の中に白のブラウスと黒のスカートを配置したおれの欲望を、見抜いていたと思うのだが・・。
 その夜、金沢文庫近くの宿で交わした愛の深まりは、ふと気を許すと死の深遠を覗き込むような営みだった。不可能と分かっているのに、相手と一体になりたくて、背中に回した腕で締め付け続けたのだ。
「殺して・・」
 ミナコさんの呻きに正気を戻した。
 吐ききった肺の細胞めがけて、濃い潮の香が押し寄せてきた。
「夜の海、人の呼吸に同調していたよね」
「朝の海も、街の人びとと同化していたわ」
「ぼくたち、あの時と何も変わっていないよね?」
「・・・・」
 一瞬、間があったのは、ミナコさんが、おれの目の中を覗き込んだ、わずかな時間のズレだったと思う。
「許してくれるの?」
「許して欲しいのは、ぼくの方だ。あれは、憎しみではなく、ぼくの嫉妬が原因なんです」
 おれは、やっと、ミナコさんのマンションで引き起こした恥ずべき行為の釈明をすることができた。
「前のように、わたしを支えてくれるのね」
「もちろんだよ。ぼくも、今では、たたら出版の一員として頼りにされているんだから。ミナコさん、お帰り・・といって迎えられるように、しっかり働いて、居心地の好い場所をつくっておくよ」
「ありがとう」
「それを言いたいのは、ぼくの方だ」
 聞いている立会いの係官は、どう受け留めていたのだろうか。普通では気恥ずかしくて躊躇するような言葉を、おれは澱みなくしゃべっていたようだ。
 途中、係官に遮られることもなく、満足のいく心の会話を交わすことができた。
「ミナコさん、ぼくも裁判の様子を傍聴したほうがいいですか」
「いいえ、それは、わたしだけで解決をつける問題よ。・・結果だけ、待っていてね。必ず、あなたの元へ戻るから、もう少し待っていてください」
 おれは、大きくうなずいた。うれしさが込み上げてきて、鼻の穴が膨らみそうになった。
「きょう、帰りに、何か差し入れをしたいんだけど、ミナコさん、いま欲しいものを教えてください」
「ありがとう。でも、もう、あなたに充分もらったわ。これ以上何もいらない。それに、わたし、そんなに長いこと、ここにいるつもりはないわ」
 再び、おれは、うなずいた。
 こんなに素晴らしい一日になろうとは、想像もつかないことだった。おれは、右手で、背広の上から胸の辺りを撫ぜた。
 誰にも言ってはいないが、先週、白山神社まで出向いて祈願してもらった開運の御札を、内ポケットに落とし込んでおいたのだ。
 神様ありがとう。ミナコさんありがとう。
 ちょうど二十分が過ぎたとの係官の合図を潮に、おれは立ち上がって手を振った。そのまま、ミナコさんが立ち去る姿を見送った。
 絹のブラウスと、タイトスカートのはっきりしたコントラストが、おれの目に毅然とした意志の強さをともなって映った。
 おれの意に応えて、愛を容認しながら、一方で闘う姿勢を見せているのかもしれない。失踪したころより、ほんの少しスリムになった後ろ姿が、あらためて、おれの胸中を揺さぶった。

   (続く)

 
 

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« <おれ>という獣への鎮魂歌... | トップ | <おれ>という獣への鎮魂歌... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

連載小説」カテゴリの最新記事