ミナコさんの業務上横領事件に関連して、共犯を疑われた不愉快な経験が、おれのなかに、心の傷となって残っていた。
(今度は、なんなのだ?)
自然に、身構える姿勢になっていた。
「いや、内容を知らずに、頼まれて保管している物があるんじゃないかと思いましてね」
刑事は、遠まわしな言い方で鎌をかけてきた。
「知り合いといっても、顔見知り程度ですよ。・・ぼくに、モノを預けるなんて事は、ありえませんね」
「へえ、そうですか。けっこう深い付き合いらしいと、情報が入っているんですがねえ」
ミナコさんを担当していた刑事と、どこかで繋がっているのだろう。思わせぶりな口調が気になった。
世間では、一度犯罪者の烙印を押されると、一生警察に付きまとわれると信じられている。
せっかく更生を果たしたのに、事件が起きるたびに疑いの目を向けられ、それが原因で職場を追われて、再犯をおかすケースが少なくないと伝えられている。
おれは今まで、そんな話は映画やテレビの中だけのストーリーであって、シナリオライターは、ずいぶん安っぽい話を書くものだと、頭から馬鹿にしてきた。
だが、実際に自分の身に起こっていることは、聞き込みに名を借りた尋問のように感じられる。世間の噂が、あながち的外れでないことを、おれは思い知った。
「ほんとうに、何も預かっていませんね」
刑事は、しつこく念を押した。
「それって、昨夜の救急車騒ぎと、関係があるんですか」
「おっ、やっぱり知ってるじゃないか」
刑事は、してやったりという顔をして、おれを凝視した。
「となりの部屋の女性が、睡眠薬を飲みすぎたとか聞きましたが、まだ入院してるのですか」
「・・・・」
刑事は、おれが嘘を吐いているかどうか確かめるように、表情の変化を追おうとした。
「・・お宅、ほんとに何も知らないの?」
「どういうことですか」
「オンナは、手当てをしたが、助からなかったよ。今朝方、息を引き取った。別のクスリも出て、いま司法解剖に回されている」
「えっ、死んだんですか」
おれは、絶句した。
そんなことが、あるのだろうか。
昨夜、毛布に隠れてほとんど目にすることのできなかった隣家の女性を、不吉な記憶として振り返っていた。ストレッチャーの上の、顔の見えない女の印象が、おれの中でいつまでも尾を引きそうだった。
運命に対して、無性に腹が立った。最近まで明るい笑顔を見せていたのに、容赦なく命を奪っていった気まぐれな運勢に、怒りを覚えた。
「可哀そうに・・。その上、ガサ入れですか」
おれは、神経を逆撫でする物言いをしてしまったようだ。こうした言葉が、いい結果をもたらすはずがないことを重々承知していながら、なにものかに反発する気持ちを、抑え切れなかったのだ。
「必要があるから、捜査している」
刑事は、冷ややかな目で、おれを流し見た。
「さっき、別のクスリとか、おっしゃっていましたが、まさか覚せい剤のことじゃないでしょうね」
一瞬、刑事が表情を変えた。
自分の不用意な一言から、捜査の核心に迫られたことへの動揺が、隠し切れていなかった。
「余計なことを言うんじゃない。まだ何も判っちゃいないんだ。だから、聞き込みをやってるところだ」
おれの真意を量りかねて、態勢を整え直しにかかったようにみえた。
「まだまだ、何回も来るよ。聞いたこと、預かったもの、何でもいいから、早く思い出して協力したほうがいいよ」
静かな口調で、おれにプレッシャーをかけた。
狙いのものが、出たのか、出なかったのか。隣室で続いていた物音が止んで、捜査班は引き上げていった。
おそらく、鑑識まで動員して、流しや洗面所まで調べていったのだろう。
パチンコ稼業の男が、まさか覚せい剤に手を染めていたとは考えられなかったが、それならなぜ、オクサンの体から反応が出たのかと、おれの疑問も広がっていった。
アパートに帰ってきてから、ヒモの男と一度も顔を合わせていないことに気が付いた。
病院への搬送から、死亡の確認、そして事件性を疑われての司法解剖、同時に警察による事情聴取、ことによったらオンナの家族への連絡、そして家宅捜索。
おそらく、一睡もできない状況が続いていて、ここへは戻れなかったのだ。昼間のことはわからないから、一度は帰宅したのかもしれないが、どちらにせよ、おれと顔合わせする機会は全く無かったはずだ。
その方が、気は楽だった。内心、顔を合わさずに済んでよかったと、胸を撫で下ろしていた。
二日ほど経って、少しずつ情報が入ってきた。
新聞の短い記事と、家主夫人の長い話によって、事件の概要が分かって来た。
それらを合わせると、オンナの睡眠薬服用は、やはり自殺目的であり、捜索によって家族あての遺書が発見されたらしい。
ほんとうの死因は、覚せい剤と睡眠薬の複合使用による心不全、いわゆるショック死である。
問題は、覚せい剤の入手先で、内縁の夫すなわちヒモの男が逮捕されている。証拠品の注射器と、粉末の溶解に使ったとみられる小皿が、なんと病院のゴミ箱から発見されている。
とっさの機転は愕きだが、見つかってしまえば、自ずから自供したも同然だ。オンナは、おそらく内縁の夫の勧めで薬物使用に至ったのだろうが、詳しい経緯は現在取調べ中とのことであった。
盛岡から上京してきたオンナの母親の嘆きは、家主夫人の口を通して聞かされた。片親で育ち、東京でホステスとして働きながら、年齢の近い弟の学費を仕送りしていたが、数年前に弟が就職して、やっと重荷から解放されたあげくの死出の旅となったのである。
おれは、アパートの玄関先で、立ったままその話を聞き、部屋に入って号泣した。声こそ抑えたが、間歇泉のように噴き上げてくる悲しみに、長いこと肩を震わせた。
福岡に居るはずの男の身内からは、何の連絡もないのだと、家主夫人の憤慨が続いていたが、まもなく運送業者が荷物を運び出していったから、一応の解決は付いたようだった。
こんなに身近なところで、大それた事件が起こったものだが、ミナコさんの勾留を知ったときよりは、こころの痛みは少なかった。あれだけもらい泣きしたのに、過ぎてみれば悲しみの質が違っていることに気付く。
泣いて、涙をたくさん流せるうちは、傷つけられたブナの木と同じように、樹液による修復が容易なのだと思った。泣けるおれはいいが、泣くこともできない親はどうしたらいいのか。人の一生には、他人の手出しできない領域がある。おれは、そのことをよくよく胸に刻んだ。
数日後、ミナコさんからの返事が届いた。
おれが希望した面会日の、一番あとの日付けが示されていた。
隣人の不幸な顛末を横目に、おれは一筋の木漏れ日を見ている。鬱蒼とした枝葉の重なりを透かして、太陽の欠片を垣間見ているのだ。
やがて、ミナコさんを覆う葉っぱも、枝を離れ、地上に落ちる。
都合のいい解釈だが、秋が深まるころには、ミナコさんの身に陽光が降りそそぐのではないかと、おれは、自分のこぶしに力が漲るのを感じた。
今度の面会日には、何かしら差し入れをしたい。
ミナコさんに確かめて、その日のうちに差し入れをするのだ。
おれが勝手に想像しても、分かるはずのないことだが、それでも、あれこれと考えを回らすのが悦びだった。
そして、その日はやってきた。
前回とは、打って変わって、朝から雨が降っていた。
おれは、早朝に飛び起き、身支度を整えて家を出た。五月の雨が、おれの足下を濡らした。
跳ね返る雨滴を見つめながら、きょうの運勢は、おれの運勢は、そしてふたりの運勢はと、占いにすがる女学生並みの期待を持って、国鉄中野駅への道のりをたどった。
(続く)
(今度は、なんなのだ?)
自然に、身構える姿勢になっていた。
「いや、内容を知らずに、頼まれて保管している物があるんじゃないかと思いましてね」
刑事は、遠まわしな言い方で鎌をかけてきた。
「知り合いといっても、顔見知り程度ですよ。・・ぼくに、モノを預けるなんて事は、ありえませんね」
「へえ、そうですか。けっこう深い付き合いらしいと、情報が入っているんですがねえ」
ミナコさんを担当していた刑事と、どこかで繋がっているのだろう。思わせぶりな口調が気になった。
世間では、一度犯罪者の烙印を押されると、一生警察に付きまとわれると信じられている。
せっかく更生を果たしたのに、事件が起きるたびに疑いの目を向けられ、それが原因で職場を追われて、再犯をおかすケースが少なくないと伝えられている。
おれは今まで、そんな話は映画やテレビの中だけのストーリーであって、シナリオライターは、ずいぶん安っぽい話を書くものだと、頭から馬鹿にしてきた。
だが、実際に自分の身に起こっていることは、聞き込みに名を借りた尋問のように感じられる。世間の噂が、あながち的外れでないことを、おれは思い知った。
「ほんとうに、何も預かっていませんね」
刑事は、しつこく念を押した。
「それって、昨夜の救急車騒ぎと、関係があるんですか」
「おっ、やっぱり知ってるじゃないか」
刑事は、してやったりという顔をして、おれを凝視した。
「となりの部屋の女性が、睡眠薬を飲みすぎたとか聞きましたが、まだ入院してるのですか」
「・・・・」
刑事は、おれが嘘を吐いているかどうか確かめるように、表情の変化を追おうとした。
「・・お宅、ほんとに何も知らないの?」
「どういうことですか」
「オンナは、手当てをしたが、助からなかったよ。今朝方、息を引き取った。別のクスリも出て、いま司法解剖に回されている」
「えっ、死んだんですか」
おれは、絶句した。
そんなことが、あるのだろうか。
昨夜、毛布に隠れてほとんど目にすることのできなかった隣家の女性を、不吉な記憶として振り返っていた。ストレッチャーの上の、顔の見えない女の印象が、おれの中でいつまでも尾を引きそうだった。
運命に対して、無性に腹が立った。最近まで明るい笑顔を見せていたのに、容赦なく命を奪っていった気まぐれな運勢に、怒りを覚えた。
「可哀そうに・・。その上、ガサ入れですか」
おれは、神経を逆撫でする物言いをしてしまったようだ。こうした言葉が、いい結果をもたらすはずがないことを重々承知していながら、なにものかに反発する気持ちを、抑え切れなかったのだ。
「必要があるから、捜査している」
刑事は、冷ややかな目で、おれを流し見た。
「さっき、別のクスリとか、おっしゃっていましたが、まさか覚せい剤のことじゃないでしょうね」
一瞬、刑事が表情を変えた。
自分の不用意な一言から、捜査の核心に迫られたことへの動揺が、隠し切れていなかった。
「余計なことを言うんじゃない。まだ何も判っちゃいないんだ。だから、聞き込みをやってるところだ」
おれの真意を量りかねて、態勢を整え直しにかかったようにみえた。
「まだまだ、何回も来るよ。聞いたこと、預かったもの、何でもいいから、早く思い出して協力したほうがいいよ」
静かな口調で、おれにプレッシャーをかけた。
狙いのものが、出たのか、出なかったのか。隣室で続いていた物音が止んで、捜査班は引き上げていった。
おそらく、鑑識まで動員して、流しや洗面所まで調べていったのだろう。
パチンコ稼業の男が、まさか覚せい剤に手を染めていたとは考えられなかったが、それならなぜ、オクサンの体から反応が出たのかと、おれの疑問も広がっていった。
アパートに帰ってきてから、ヒモの男と一度も顔を合わせていないことに気が付いた。
病院への搬送から、死亡の確認、そして事件性を疑われての司法解剖、同時に警察による事情聴取、ことによったらオンナの家族への連絡、そして家宅捜索。
おそらく、一睡もできない状況が続いていて、ここへは戻れなかったのだ。昼間のことはわからないから、一度は帰宅したのかもしれないが、どちらにせよ、おれと顔合わせする機会は全く無かったはずだ。
その方が、気は楽だった。内心、顔を合わさずに済んでよかったと、胸を撫で下ろしていた。
二日ほど経って、少しずつ情報が入ってきた。
新聞の短い記事と、家主夫人の長い話によって、事件の概要が分かって来た。
それらを合わせると、オンナの睡眠薬服用は、やはり自殺目的であり、捜索によって家族あての遺書が発見されたらしい。
ほんとうの死因は、覚せい剤と睡眠薬の複合使用による心不全、いわゆるショック死である。
問題は、覚せい剤の入手先で、内縁の夫すなわちヒモの男が逮捕されている。証拠品の注射器と、粉末の溶解に使ったとみられる小皿が、なんと病院のゴミ箱から発見されている。
とっさの機転は愕きだが、見つかってしまえば、自ずから自供したも同然だ。オンナは、おそらく内縁の夫の勧めで薬物使用に至ったのだろうが、詳しい経緯は現在取調べ中とのことであった。
盛岡から上京してきたオンナの母親の嘆きは、家主夫人の口を通して聞かされた。片親で育ち、東京でホステスとして働きながら、年齢の近い弟の学費を仕送りしていたが、数年前に弟が就職して、やっと重荷から解放されたあげくの死出の旅となったのである。
おれは、アパートの玄関先で、立ったままその話を聞き、部屋に入って号泣した。声こそ抑えたが、間歇泉のように噴き上げてくる悲しみに、長いこと肩を震わせた。
福岡に居るはずの男の身内からは、何の連絡もないのだと、家主夫人の憤慨が続いていたが、まもなく運送業者が荷物を運び出していったから、一応の解決は付いたようだった。
こんなに身近なところで、大それた事件が起こったものだが、ミナコさんの勾留を知ったときよりは、こころの痛みは少なかった。あれだけもらい泣きしたのに、過ぎてみれば悲しみの質が違っていることに気付く。
泣いて、涙をたくさん流せるうちは、傷つけられたブナの木と同じように、樹液による修復が容易なのだと思った。泣けるおれはいいが、泣くこともできない親はどうしたらいいのか。人の一生には、他人の手出しできない領域がある。おれは、そのことをよくよく胸に刻んだ。
数日後、ミナコさんからの返事が届いた。
おれが希望した面会日の、一番あとの日付けが示されていた。
隣人の不幸な顛末を横目に、おれは一筋の木漏れ日を見ている。鬱蒼とした枝葉の重なりを透かして、太陽の欠片を垣間見ているのだ。
やがて、ミナコさんを覆う葉っぱも、枝を離れ、地上に落ちる。
都合のいい解釈だが、秋が深まるころには、ミナコさんの身に陽光が降りそそぐのではないかと、おれは、自分のこぶしに力が漲るのを感じた。
今度の面会日には、何かしら差し入れをしたい。
ミナコさんに確かめて、その日のうちに差し入れをするのだ。
おれが勝手に想像しても、分かるはずのないことだが、それでも、あれこれと考えを回らすのが悦びだった。
そして、その日はやってきた。
前回とは、打って変わって、朝から雨が降っていた。
おれは、早朝に飛び起き、身支度を整えて家を出た。五月の雨が、おれの足下を濡らした。
跳ね返る雨滴を見つめながら、きょうの運勢は、おれの運勢は、そしてふたりの運勢はと、占いにすがる女学生並みの期待を持って、国鉄中野駅への道のりをたどった。
(続く)
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