どうぶつ番外物語

手垢のつかないコトバと切り口で展開する短編小説、ポエム、コラム等を中心にブログ開設20年目を疾走中。

<おれ>という獣への鎮魂歌 (47)

2006-07-21 00:14:10 | 連載小説
 プロ野球巨人軍の長島茂雄引退に続いて、田中角栄、ハイセイコーと、それぞれの分野で最も話題性を帯びた大物の退陣が相次いだ。
 昭和四十年代最後の、しかも秋から年末にかけての数ヶ月の間に、波瀾に満ちた昭和の一サイクルが、あわただしく幕を閉じたのであった。
 明けて昭和五十年を迎えても、景気は一向に回復せず、人びとは散見する明るいニュースに群がって、不満の代償を得ようとしていた。
 統一地方選挙で、東京、大阪、神奈川の知事が、いずれも革新系の候補者の勝利に終わって、多くの有権者が溜飲を下げた。
 五月には、英国エリザベス女王夫妻の来日があり、続いて田部井淳子が女性初のエベレスト登頂を果たして、連日マスコミを大騒ぎさせていた。
 おれも、ご他聞に漏れず、他人の活躍にわが身の幻想を背負わせて、ああだこうだと一喜一憂していた。
 ミナコさんの勉強は、めざましい勢いで進んでいるようであった。先生が経営する、渋谷の占いコーナーで、若い娘相手の実践修業を許されるまでになっていた。
 四柱推命学の根本は『陰陽五行説』から成り立っていると解説されているが、ひとくちに言ってしまえば、膨大な歳月を積み重ねた統計学なのだと、ミナコさんから聞かされていた。
 十干、十二支の組み合わせを基本に『通変星』を見出し、あとは、その基礎を活用して、いかに人の運命を予見するかである。
 俗に、生年月日が同じなのに、なぜ運命が異なるのかといった疑問が投げかけられるが、この世に生を享けた時刻まで加味して精度を高める周到さが求められるのだ。それとともに、人と人との出会いによって生じる陰陽五行の関係が、通変星の名のごとく、運命の変化を呼び込んでいくのだという。奥が深く、一筋縄ではいかない所以である。
 ともあれ、あらゆる占学の中でもひときわ高い的中率を誇る四柱推命が、多くの人の支持を受けているのは、紛れもない事実であった。
 だから、優れた体系は揺るぎないものとして、それを用いるひとの人間的総合力が問われているというのが、先生の持論とのことだった。相手の話し方、物腰、そうした後天的な要素も判断材料のひとつであり、そうした部分で占う者の洞察力が試されているのだと、教えられたようであった。
「わたし、いまの立場を告白したのよ。隠していたって、どうせ先生に見破られてしまうから、先に言っちゃいますって。・・そうしたら、先生のほうも急に熱心になって、わたしに目をかけてくれるようになったの」
 ありがたいことだが、嫉妬を呼び覚まされる出来事でもあった。
「先生って、何歳なの」
「七十歳ぐらいかな。白い顎鬚の、とっても威厳のある人よ」
 齢を聞いても、それで嫉妬が収まるというわけでもなかった。
 さまざまな体験をしてきて、人間的な包容力もあるミナコさん。なにより、ひとの話をよく聞けるということが、一番の資質であったろう。その点、ミナコさんは、この仕事にピッタリだった。
 先生と呼ばれる老人ならずとも、執行猶予中の女占い師の誕生を、後押ししたくなるに違いない。ことさら、それを売り物にするのではないが、潜在する彼女のパワーに期待を寄せ、それを発揮させてみたいという誘惑に駆られるはずだった。
 おれは、閉じ込め損ねたミナコさんの才能が羽ばたくのを、うれしくも、うらやましくも感じていた。
 おれの関与ではなく、枯れる寸前の老人の手によって開花しようとしている状況が、なんとも悩ましく思われて仕方がなかった。
「ミナコさん、ぼく、梅雨が明けたら七尾へ行って来るよ。世話になった叔父さんにも会いたいし、父と母の供養もちゃんとしなければいけないと思うんだ。このままでは、一家三人、さまよい続けているようで、落ち着かないからね」
 なぜ、そんな心境になったのだろう。
 おれは、いまも押入れに仕舞ったままの位牌を思い浮かべていた。桜の木の箱に収めたまま、決して開けようとしなかった両親の過去。
 痴情による殺人事件の被害者として、息子の頭の中からも追い払われていた存在が、ときおりフラッシュを焚くように甦るようになったのは、つい最近のことだ。父はともかく、不始末をしでかした母を許す気にはなれないが、最も気になる存在として姿をちらつかせるのも、母の反転した面影であった。
「そのほうがいいわ。先祖の供養は、大切だっていうから・・」
 ミナコさんが控えたように答えたのは、おれの心中を憶測したからに違いない。生半可な易学や方位学を振り回すことなく、おれの出立に賛同したのは、かねてよりおれの抱えた闇を気遣っていたからかもしれない。
 おれは、叔父に手紙を書いて、父母の墓参りに行きたいとの希望を申し出た。
 すぐに返事がきて、七月二十日過ぎの日程を空けておくと言ってきた。
 叔父に送られて、七尾を後にしたのは何年前のことだったろうか。過ぎ去った歳月のことよりも、三月下旬の砂利を敷き詰めたホームに立つ叔父との別れの情景の方が、鮮明に浮かんでくる。
 あの日は、春とは思えない冷え冷えとした陽気に見舞われていた。陸と海との寒暖の差が霧を呼び、七尾の街をぼんやりとかすませていた。靄や霞の軽々しい粒子とは異なる、湿って重い空気の寄り合いだった。
 最後の最後まで胸に抱えていた風呂敷包みをおれに渡して、叔父はわずかによろけたように見えた。
「おまえに、仏の守りをさせるのは、忍びないが・・」
 叔父の潮風に焼けた目の縁に、涙が浮かんでいた。「うちの寺で、骨は預かってもらうことにした。いずれおまえが、どこぞに墓を持ったら、たった一人の係累として引き取ってくれ。それまで、この位牌を大切に守るんだぞ」
 無縁仏にならないように、知恵を絞った叔父の計らいが、いまになってずしんと胸を打った。
「おまえと離れ離れになったら、兄貴もどんなにか寂しかろう。・・それからな、おまえは母親を恨むかもしれんが、どんな親でもおまえにとっては母親だ。苦しみも、喜びも、共に過ごした時間があることを忘れるな」
 おおよそ、そうした意味のことを言ったと思う。
「はい」と、返事をしたかどうか。
「じゃあ、行きます」と、おれは叔父に向かって頭を下げた。その場面は、いまでもはっきりと覚えている。
 和倉温泉から帰る乗客で混みあう車内から、プラットホームの叔父を見つめていた。車両が動き出すと、それまで写真のように窓枠に嵌ってみえた叔父の姿が、枠から外に逃げていった。
(ああ、みんな去った)
 血縁も、この町の記憶も、すべておれの中から抜け出ていったのだと感じていた。悲しさよりも、さばさばした感覚を味わっていたような気もする。
 それでも、叔父への熱い想いだけは残っていた。高校まで出してくれたことへの感謝の気持ちもあったが、それとは別に、叔父に対して言いようのない哀れさを覚えていたような気がする。
 本来、おれ自身に向けられるべき憐憫が、おれを見送って立ち続ける初老の男に振り向けられていたのは、どんな理由だったのか。
 あの日、おれの胸にごつごつと当たっていた風呂敷包みは、もう旅の道連れではない。桜の木箱から取り出した二つの位牌は、ミナコさんの了解を得て、ままごとのような仏壇に納めてある。
 おれは、ミナコさんの目に触れないように拝み、ミナコさんもおれの居ないところで、拝んで呉れているようだ。ときおり、丈の低い仏花が供えられ、燃え尽きた線香の灰が、蛇の抜け殻のように横たわっている。
 夫婦でもないのに、どこか夫婦以上に息の合ったおれとミナコさんは、睦み、敬い、嫉妬しながら、互いのスケジュールにしたがって日を送っていた。
「わたし、比肩の星に関係するから、あなたとは、やはり今のままでいるのが好いみたい」
 おれには理解不能の理論を持ち出して、結婚を避けた理由付けに援用していた。
 おれは、ミナコさんを独占したい欲求に苛まれながら、ミナコさんが自由に活動するのを、好ましく受け止めていた。
 ミナコさんが、愛人のままで居たいといったことが、おれの中で形を整え始めている。互いに対等の関係を認めつつ、ただ、おれだけが、どこか去勢されたような虚しさに苛立ったりした。投げやりな気持ちになって、ミナコさんを弄ぶこともあった。
「先生から、ちょっかい掛けられたりしないの?」
「ばかねえ、七十過ぎのおじいさんよ。興味があるのは、東洋思想だけ。特に中国古来の四柱推命学に分け入ったら、他の事なんか眼中に入らないわ」
 どうしても、はぐらかされているような感覚から解放されないいまま、おれの七尾行きの日が迫ってきた。

   (続く)
 

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