どうぶつ番外物語

手垢のつかないコトバと切り口で展開する短編小説、ポエム、コラム等を中心にブログ開設20年目を疾走中。

<おれ>という獣への鎮魂歌 (48)

2006-07-26 01:32:00 | 連載小説
 例年より少し遅れて、梅雨が明けた。
 おれは、たたら出版社長に事情を話して、七月末までの一週間、夏の休暇を取らせてもらった。
 上野駅を八時過ぎに出発する特急『白山』に乗り込んだ。この愛称を持つ列車を発見したからには、乗らないわけにはいかなかった。
 おれが、七尾を出て東京を目差したときには、上越線経由の特急『はくたか』のみで、越後湯沢で別の電車に乗り換えて上野に向かった記憶がある。
 三年ほど前に『はくたか』の兄弟列車とも言うべき『白山』が投入され、いまは信越本線の長野回りで金沢に向かうコースが主流となっていた。その後、昼行特急列車として便数も増え、一日三往復で運行されているとのことであった。
 初めての里帰りは、感傷に満ちた旅となった。
 鉄路をひた走る新型車両の心地よいひびきに身を任せていると、過ぎ去った日の思い出が甦ってくる。
 風呂敷包みと、布製のボストンバッグを抱え、途中で昼飯を食うことも出来ずに緊張しきっていたおれは、上野に着いて駅の売店でアンパンと牛乳を口にしたとき、おもわず喉を詰まらせ、恥ずかしい思いをしたものだった。
 直江津回りの列車の記憶は、すべてが強張っていて、物悲しい。
 行きずりに声をかけてくれた乗客の記憶も、むしろ不安の感情と同居している。座席も自由の利かない作りで、長時間の緊張をさらに増幅させるものだった。
 それに引き換え、信越本線経由の旅は、ゆったりとして楽しかった。途中、横川駅では、長めの停車時間を利用して、駅弁売りの手から憧れの峠の釜めしを買うこともできた。
 夢にまで見た旅の醍醐味だった。
 昼飯には少し早い時刻だったが、空腹を誤魔化す必要もあるまいと、さっそく釜めしを手に取った。
 容器を覆っている<おぎのや>のラベルを丁寧にはずし、二つに折って雑誌に挿んだ。左手にすっぽりと納まる焼きものの感触が、ほのかな温もりを伝えてきた。 飯にのった具の一つひとつが、一番旨いのはオレだと主張しているようで、どれから箸をつけようかと迷う始末だった。
 力強く碓氷峠を制圧する列車と競うように、おれは目を見開いて釜めしに集中した。
 中軽井沢を過ぎると、勇壮な浅間山が車窓に迫ってきた。すっきりとした立ち姿の、その頭上に、煙まじりの不穏な雲が広がっている。さしずめ、道中合羽に三度笠をかざして先を急ぐ国定忠治の趣だった。
 おれは、満足のうちに食い終わった釜めしの容器を足下に置き、身を起こした姿勢のまま、刻々と形を変えていく浅間の勇姿に見入っていた。
 佐久の広い大地を駆け抜ける間中、山に見送ってもらった。
 おれは、上田あたりで眠りに落ちたようだ。
 気が付いたときには、長野駅を目前にしていた。
 善光寺にでも行くのか、信心を背負ったような一団が、列車を降りていった。再び気を取り直して、後半の旅路が始まる。りんご畑が尽きると、長野盆地ともお別れだった。
 黒姫、妙高高原と移り変わっていく風景は、みずから山中に分け入る列車の息遣いを際立たせた。小諸から遠望した浅間の人間くさい容姿と異なり、この黒い森からは獣の潜む気配が色濃く感じられた。
 特急『白山』の編成そのものが、二重の動力を備えた野生の生き物になっている。碓氷峠を鼻息荒く駆け登ってきた勢いは、むしろ熊や、日本カモシカをも平伏させる森林の王と言ってよかった。
 原始の森の山襞を掻き分けていく赤と朱鷺色のツートンカラーの車体は、おれの心を乗せて弾むように走った。
 直江津からは、おれにとって馴染みのある駅名が続いた。日本海に沿って糸魚川、黒部、滑川をひた走り、半島の根元を横切って石動、津幡に至った。
 おれの鼻腔に魚の匂いが充満した。それが現実のものだったのかどうか。それとも、記憶の手がはやばやと能登の海を求めてさまよい出たのか。多くの乗り換え客と争うように、おれもプラットホームを走った。
 ここからは、和倉温泉行きが連絡していて、あとニ時間もすれば七尾の家に着けるはずだった。
 到着したのは、七尾の海に夕暮れが迫って来る時刻だった。幸い、この地にも梅雨明けの暑さが戻っていて、熱せられた光があたりに漂っていた。
 何時に行き着くか分からないので、迎えは要らないと書き送っておいたのに、改札口の陰から、ワイシャツ姿の叔父が覗いていて、おれを慌てさせた。
「待たないでと言ったのに・・」
 おれは、不服の声をあげたかもしれない。「いったい何時ごろから、ここにいるのよ。くたびれちゃうじゃないですか」
「だいない、疲れることなどあるもんか。おまえの方が、長旅でご苦労だったな。それにしても、よう、いらした。よう、いらした」
 おれは、叔父のバイクに乗せられて、七尾南湾に面した湊町に向かった。おれが
養父としての叔父に育てられた、思い出の地だった。
「すまんがな、きょうは塩津の祭りがあるわいね。前々からの約束じゃいうて、うちのヤツは出かけて居らんね」
 そういえば、車内のあちらこちらに『塩津かがり火恋祭り』のポスターが貼ってあった。能登のキリコ祭りの一つとして、たくさんの観光客を集める夏の風物詩だった。
 年に一度、海側の神と山側の神が、海上で逢瀬をたのしむというロマンティックな神事が受けて、和倉温泉の泊り客までが押しかける。
 とりわけ、アベックや女性の団体客に好評で、地元の者でも女同士が連れ立って、塩津海岸に繰り出す姿が見られた。
 おれは、一度も行ったことはないが、叔父の妻は、この時期娘時代の友だちを頼って、よく泊りがけで出かけていった。
 叔父はいつも取り残されて、おれを相手に将棋を指していた。
 将棋の他には、コップ一杯の焼酎を飲むのが愉しみで、明日の漁に備えて、はやばやと寝息を立てるのが日課になっていた。
 夕暮れ時になると、キリコと神輿を船に乗せ、双方の神が海へと漕ぎ出す。ちょうど、いま頃が祭りのクライマックスだろうか。
 話によれば、水面には蓮の葉に灯された千余の灯明が浮かべられ、海岸からでも幻想の世界に魅了されるという。今年もまた、叔父の妻は、少女の頃に戻って胸を熱くしているのだろうと想像した。
 どんな理由にせよ、義理の叔母と顔を合わせないで済むことになって、おれも気が楽になった。養い母として、一時的とはいえ曖昧な関係を強いられたおれには、複雑な感情が残っている。なんとも掴みがたい存在として、頭の中に棲み付いていた。
 叔父と入った蕎麦屋で、天ぷらそばを食った。旬の車エビと、キスに、大葉とシシトウの天ぷらをあしらった、並みのランクのそばだった。
「東京と比べると、ずいぶん安いね」
 おれは、先に立って勘定を済ませた。
「わっちゃ、いつから、そげなことするようになった」
 驚きの声の中に、喜びのひびきが混じっていて、それが、おれには何よりもうれしかった。
 翌日は、近くの寺に出向いて、両親の供養をしてもらった。
 これまでの心境を正直に話すと、痩身の老僧は大きくうなずいて、あなたの恨みの心は年ごとに薄れていくものだと諭した。供養の気持ちが湧いたことで、ご両親は成仏に一歩近付いたのだと請合ってくれた。
「このうえは、あなたにも縁の深い当寺に墓所をしつらえて、永代供養をしたほうが善いでしょう」
 あなたに、その力が宿るまで、いましばらくお預かりいたしましょうと、おれを励ましてくれた。
 叔父とは、その日の午後に別れた。
 叔父の妻は、まだ家に戻っていなかった。幼馴染の友人といっても、ともに亭主もちの身である。家を空けたまま、平然と時を過ごせる神経は、奔放な漁師町のおんな衆のなかでも、群を抜いていたと思う。
 なんとなく避けたいと、気持ちが逃げるのは、痴情に走った母親の面影を、叔父の妻に重ねるせいであろうか。
 <能登はやさしや、土までも>と唄われたやさしさとは、どんな深淵を隠しているのであろうか。
 おれには、まだ尋ねなければならない場所があった。
 駅前の観光案内所で、奥能登のパンフレットをかき集めた。きょうのうちに珠洲市に入り、一泊して須須神社や禄剛埼灯台を回りたいという希望があった。
 そして、翌日には能都町に舞い戻る。廃絶したおれの生誕場所を、この目で確認しておきたかったのだ。

   (続く)
 
 
 

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« <おれ>という獣への鎮魂歌 ... | トップ | <おれ>という獣への鎮魂歌... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

連載小説」カテゴリの最新記事