ミナコさんは、浴室に消えたようだ。
ひとり取り残されて、おれは横たわっていた。
急速に萎えて、左の太腿に寄りかかった塊を、おれは鼻翼越しに眺めていた。
十分前までは、王侯貴族のように威張っていたのに、いまは使い捨てられたボロ雑巾のように張り付いている。
ミナコさんが、特別の手品を使ったわけではない。これは、オスの身に施された、約束ごとなのだ。
三月にミナコさんが失踪して以来、ずっと持続してきた渾身の計画が、いま、おれの中で、力を失っていた。
ミナコさんを支え、帰還したミナコさんと結婚して、幸せな人生をおくる。・・確信に満ちた、万全の計画のはずだったったが、当初の張り詰めた緊張が後退していくのを、ぼんやりと感じていた。
おれの心身に、変調が忍び寄っていたのだろうか。
ミナコさんとの再出発を期して、愛を交わしたはずなのに、この喪失感は何なのだろうと、頭のなかの進行表と照らし合わせていた。計画からずれ始めた心の長針を、不如意な思いで眺めた。
「あなた、半年もの間わたしを待っててくれたのね」
ミナコさんが、困惑したような笑みを見せた。「・・途中で浮気したってよかったのに。量が多すぎて、溢れそうだったわ」
ミナコさんは、何の気なしに言ったようだが、おれの中で再び弾けるものがあった。ミナコさんが、ストリッパーの真似をして、おれを笑わせたときと同じ弾けかただった。
「うん、ちょっとシャワーを浴びてくる」
おれは、首から下を温水で丁寧に洗い、その後、下腹部に冷水を掛け続けた。臍下丹田についての解説を読んで以来、東洋医学の効用を信じてきたおれは、立ったまま瞑想して気を一点に集中し、霧消したものの回帰を待った。
タオルケットを胸まで掛けて、ミナコさんは殊勝な様子で待っていた。
目を瞑っているのは、おれのときと同じだった。おれがそうであったように、卑猥な想像を眼裏に描いているのかもしれないと、静まりきった湖面を覗くように見下ろした。
おれは、ゆっくりとタオルケットを剥いだ。
弾けたものの正体が、そこにあった。毀れた計画が、あたりに散らばっていた。
「ミナコさん、とりあえず、ぼくのところへ来たほうがいいよ」
それは、おれの本心だった。「・・すぐにとは言わないけど、ぼくはミナコさんの伴侶でありたいと思ってきたんだ」
おれは、うっすらと目を開けたミナコさんに、話しかけた。
「ありがたいわ。わたしも、あなたと一緒にいたい。・・でも、前にも言ったように、結婚は無理だと思うの」
確かに、そう言っていた。最初の結婚で蒙った心の傷は、理屈では説明のつかない怯えを抱え込ませてしまったのかもしれない。
ミナコさんが、悪いわけではない。おれが勝手に思い描いた『大人の純愛』などという妄想がいけなかったのだ。結婚して、一分の隙もなく心を寄せ合う。いかにも、未熟なおれが考えそうな型紙だった。
不倫の愛、人妻との純愛などという戯言も、男や女の果てしない欲望が作り出した、高密度の観念に過ぎないだろう。作家が創造する究極の虚構、そこで翻弄される主人公たちは勝手にやってればいい。だが、それを現実と見紛う者には、どうぞお好きなようにと笑うしかない。
(あなた、不倫で死ねますか。死んで後悔しませんか)
ミナコさんを巻き込んで、純粋な愛を夢見たおれの自嘲でもある。
ミナコさんは人妻ではないし、おれたちの関係は不倫でもないが、なぜか虚構の世界に似て見える。
放出した瞬間に、弾け、毀れていったものの正体を、おれは見てしまった。他は知らず、おれの悟ったものは、刻々と変化する心と体の多様性だった。
かなぐり捨てたバスタオルの下から、引き攣ったように腹を打つ分身をあらわにして、おれは、おれの純愛に追い討ちをかけた。
おれの顔に、獣の相を見たのか、ミナコさんも緊迫した表情をした。
足首を持って高枝鋏のように開いた。膝を立てさせると、ミナコさんの口から喘ぎが漏れた。しぶとく着けたままの薄物が、中央に寄っていた。
脱がせるのは、面倒だった。
おれは、シルクスクリーン印刷の途中にあるようなミナコさんの下腹部を見据えながら、背徳の気配が漂うものを、爪で裂いた。布の裂かれる音に反応して、ミナコさんがまた喘いだ。
草むらの中から、獣の臭いがした。おれもミナコさんも、獣だった。おれがミナコさんに取り付くと、おれの遥か頭上でミナコさんの悲鳴が聞こえた。
「わたしを愛人にして・・。愛人のままでいたいの」
悲しい結末になりそうだった。やはり、弾けたものは戻ってこなかった。ある意味、ミナコさんは真実を見ていたのかもしれない。おれの妄想が、ミナコさんまで道連れにしかねないことを、直観していたような気がする。
「そのままで、大丈夫よ」
ミナコさんの了解とは無関係に、おれは襲い掛かった。
快感というより、苦痛から逃亡するように激しく動いた。
このままでは到達できない。
おれは焦って、快感への手がかりをまさぐった。セーラー服姿の色あせた写真が、頭に浮かんだ。大塚駅から西巣鴨に向かう暗がりの道で、闌れた男に売りつけられたエロ写真の一枚だった。
おれは、写真のポーズを真似て、ミナコさんを固定した。確かめつつ動くと、追われるような焦りが遠ざかった。やっと快感が戻ってきた。おれは、セーラー服の女に、愛を撃ち込んだ。
冬が、急な寒さを連れてやってきた。
みぞれ混じりの雨が、終日降っていた。
おれが横浜まで出向くことなく、ミナコさんはおれの元に引っ越してきた。
姉夫婦に会わなかったのは、おれの意向ではない。彼らがミナコさんの説明だけで納得したことになっていた。おそらく、顔合わせの気まずさを避けたのだろうと、おれは思った。
いっそう気が楽になった。
おれとミナコさんの共同生活が始まったが、ミナコさんから家賃の半分が提供されていたし、将来を丸抱えする責任からも解放されて、おれの身の回りには自由が跋扈していた。
ミナコさんに、どうしてそんなお金があるのか不思議だったが、仕事を辞めるとたちまち困窮するおれの方が、よほど少数派なのかもしれないと気付いて、強くは遠慮しなかった。
おれは、朝、たたら出版に出勤し、ミナコさんはアパートに残った。ミナコさんが、仙台から封書で送り返してきたカギが、再びミナコさんの手に戻された。
おれが不在の間、ミナコさんがどのように時間を過ごしているのか、ことさら詮索する気はなかったが、大体のことは分かっていた。
ミナコさんの部屋と決めた奥の四畳半には、古書・新刊を問わず、占いに関する二十冊もの書籍が積まれていた。ミナコさんは、それらを読み漁り、自分の進むべき道を絞り込みつつあるようだった。
「わたし、いま、先生に付いているのよ」
「へえ、いよいよ本格的だね」
「いろいろ試してみたけど、四柱推命が一番ピッタリきたのよ。それで,集中的に学ぼうと思ったの」
「うん、奥が深い感じがする・・」
「あなたも、そうおもう?」
ミナコさんが、うれしそうに目を輝かせた。
おれは、何にでもひたむきに取り組むミナコさんが好きだった。思わぬ躓きを招いたが、経理事務では一目置かれる技量を身につけていたし、今回の占いへの傾倒も、ミナコさん自身が言うとおり、いずれ商売に結び付きそうな気がしていた。
「じゃあ、がんばってね」
「あなたも、好い本だしてよ・・」
どこかで,思い違いをしているらしいミナコさんの励ましに、おれは笑いをかみ殺しながら家を出た。
(結婚ばかりが、能じゃないな)
おれは、なんとなくウマが合う仲間と一緒にいるような生活を、気に入っていた。悲壮感が消えて、肩から力が抜けたような軽さを楽しんでいた。
この先、どのように推移していくのか、漠然とした不安を感じるときもあったが、多くの人が同じ悩みを抱えて生きているのだと気付いて,また楽になった。
にっちもさっちもいかなくなったら、そのときこそ、ミナコさんに占ってもらおうと、都合の好い考えを弄びながら、中野駅から満員電車に乗り込んだ。
(続く)
(2006/07/15より再掲)
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