不安の日々を送る正夫を尻目に、十日ほど過ぎた初秋の午後夕子が姿を見せた。
潮風にでも曝されていたのか、むき出しの肩から二の腕にかけての皮膚が小麦色に焼けている。
バンダナを巻いた髪も、夏の日差しに負けてチリチリと撚れているように見えた。
「どこへ行ってたの?」
心配げに問いかける正夫に、夕子はいたずらっぽく笑った。
「どこだと思う?」
よく見ると、日焼けを嫌っていた顔面にまで、紫外線の痕が見えた。
「九十九里・・・・」
正夫は当てずっぽうに答えた。
大磯にある海の別荘で子供時代を過ごしたという夕子の話を思い出し、反射的に湘南とは異質の房総半島を連想したのだった。
「ちがう、牛久よ・・・・」
一瞬、千葉県内陸部の町を思い浮かべたが、すかさず夕子が別の場所を示してダメ押しした。
「常磐線の牛久、住井すゑさんのお住まい・・・・」
正夫の頭の中から、上総牛久のイメージが消された。
何年か前、大学の仲間とクルマで通り抜けた熱風のメイン通りが、カギ型に曲がった先で行き先を失った。
「へえ、牛久沼の牛久? 住井さんて、あんなところに住んでるの・・・・」
正夫にとって、夕子の示した地名は名ばかりのものだった。
国道6号で行った大洗海岸は目に浮かんだが、「うなぎ」の幟旗だけがはためく通過点の町は、何ひとつ手がかりを与えてくれなかった。
住井すゑとの交流を語る夕子の声には、充足の気が漲っていた。
正夫の前で時たま見せていた苛立ちの表情が消え、自信のようなものが甦っていた。
「連絡なしで十日もほっとくなんて、なに考えているんだか・・・・」
正夫が拗ねたように言った。
女性がつかう言葉つきに似ているのに気づき、恥ずかしそうに下を向いた。
「あら、気にしてたの?」
夕子の口辺に、微笑が広がった。
「それで、キミの念願は叶ったのかな・・・・」
心の動きをごまかすように、言葉をそらした。
「わたし、いい時に伺ったみたいで・・・・」
多忙な日々を過ごす作家と、じっくり話す機会を得ることができたことを手放しで喜んでいた。
「とにかく嬉しかった。・・・・でも、先生と呼んだら、最初から注意されたわ」
実体のない、あやふやな呼称を用いると、相手の人格も何も見ないで擦り寄る軽薄な人間と誤解される、そう釘を刺されたらしい。
そして関連するように、最近あった出来事を話してくれたのだという。
日頃、住井すゑのもとに出入りし、彼女の考えに共鳴していた青年が、彼の結婚披露宴の祝辞を依頼したのはいいが、その会場でハプニングが起こった。
ホテルの式場入口に、○○家と○○家の結婚式って書いたあったのを住井すゑが発見し、早速かみついたのだ。
来賓挨拶の中で、「結婚は人と人との結びつきであって、未だに家制度が踏襲されているのは嘆かわしい」と槍玉に挙げたのだという。
土浦近辺の田舎の人がほとんどだから、みんな困って、それでも最後まで文句も言わずに聞いてくれたって笑っていたわ。
新郎が素直に反省の言葉を述べたので、その場は事なきを得た。
「これからは新婦の誰それと互いに助け合って人生を歩むので、ご出席の皆様、どうか無理難題を持ち掛けないでください」と、切り返したらしいの。
会場に笑いが湧いて、やっと和気藹々の雰囲気となった。
「先生もほっとしたんじゃないかしら・・・・」
夕子が、その場の空気を推察して言った。
注意されているのに敢えて先生と呼んだのは、夕子の中に揺るぎない尊敬の念が定着している証拠だった。
「その青年、人間の尊厳とか人権のことを口にしているけど、末は弁護士とか政治家とかをめざすタイプねと、けっこう辛らつだったわよ」
他人の苦しみや、生きていることの悲しみに敏感であること、生物すべての命に寄り添える資質、そうした能力が備わっていない人がいる。
「制度上の是非にしか興味を持てない人たちは、わたしの周りにもたくさん集まってくるけれど、やがて自然に離れていくものよ」
人間の本質を的確に見抜く作家の言葉に、夕子は圧倒されたという。
夕子自身が見透かされたような緊迫感に、足がすくむ思いを覚えたらしい。
二時間ほどいて、そろそろ帰ろうかと腰を上げたところ、老作家が思いがけない言葉を口にした。
「あんた、今晩泊まっていきなさい」
夕子のすべては、雑談の中で聞き出されていて、彼女が急いで戻る必要も場所もないことを把握されていたのだ。
「・・・・」
「そうしなさい。明日、畑仕事に連れて行ってあげるから」
柔和な表情で笑いかける一人の農婦、夕子はその自在な誘いに負けて、古びた木造の居宅で夜遅くまで語り明かしたらしい。
翌朝、鎌と鍬を持って沼の見える畑に出かけ、里芋の収穫を手伝った。
大きな葉っぱを手に取ると、まん中に寄り集まった朝露が、一方に傾いて落ちそうになった。
「ほら、夕子さん、ちょっと口をつけて御覧なさい。汚くないわよ、キラキラしているものは、天からの授かり物だから」
夕子は、手ぬぐいを被った野良着姿の住井すゑを、眼裏に思い浮かべているかのような表情をした。
差別に抗して生き抜いてきた女性活動家の顔も、看病のため夫の故郷にやってきた気丈な妻の顔も、すべて下膨れの頬に仕舞いこまれていたと振り返る。
「やっぱり、土から芽生えた生き方は、つよくて、すがすがしいわね・・・・」
夕子は、傾倒しきった一人の老婦人と同じようなニュアンスで語り、戸惑い続ける正夫をいたわるように見つめた。
正夫は、牛久での夕子の体験をとおして、住井すゑという人間の大きさを感じ取った。
問題で第一の発言力を持つ活動家であり、『橋のない川』で比類ない作家の地位を占めた老婦人のイメージを、漠然とながら思い描くことができた。
講演や対談などでも、日本有数の知識人を凌ぐ評価を得ていると聞かされた。
一方、底なし沼のような存在に接する夕子は、今後どのように付き合っていくつもりなのか。
夕子を通じて、自分までが呑み込まれていくのではないのかと、全身にかかる重みを感じた。
「土はすべての源よ。土を大切にすることが、あらゆる生命を育むことになるのよ」
この日、夕子の昂揚は冷めることがなかった。
正夫が仕事に向かう直前まで、アパートでも喫茶店でも、夕子の顔は輝き続けていた。
<牛久町城中・・・・>
見慣れない住所を差し出し地とする夕子のハガキが届いたのは、それから五日後のことだった。
裏を返すと、軽妙な河童の絵が印刷されている。
夕子の短い文面では、住井すゑの居宅の近くに『雲魚亭』という小川芋銭記念館があり、絵ハガキはそこで買い求めたらしい。
再び牛久を訪れていることを、電報のようなそっけなさで伝えるのが目的なのか。
夕子の話に感動の表情を見せながら、仕事や家族から離れられない正夫に、もう期待を抱いていないのか。
モーリーたちとの交流にも、愛想を尽かしているかもしれない。
休学したまま学業に戻ろうとしない正夫に、どことなく不審を感じている気配もあったから・・・・。
馴れ合った肉体の絆も、いったん離れてみると、知り合った当初の神通力を失いつつあるのが感じられる。
(また、牛久に行ったのかよ・・・・)
そう幾晩も、老作家の家に泊まれるはずはあるまいと、またも不安がつのってきた。
正夫の存在が重石にならない状況は、ますます深まっているようだ。
夕子がどのような行動を見せるのか、苛立ちの中で待つしかないのかもしれなかった。
(つづく)
いえ、圧倒されたのは住井すえというごつごつした巨木とその根を受け止める土の根源的な重さを難なく描ききる、筆者の筆さばきの自在さに対してでした。
住井すえの重量に触れるうち、ふわふわ娘の重心が徐々に低くなり重みを増していくさまが説明抜きで、読むものにじわりと伝わってきました。
「空気を読む小説か」と早とちりした前回のコメントは、この回を読ませていただいて撤回しなければなりませんね。
失礼しました。
次回の展開を大いに楽しみにしています。
(知恵熱おやじ)様、ありがとうございます。
コメント通り、あの時代を描くことに流される場面があったかと思います。
今回は人を、次回は・・・・。
手綱がもつれないように、あれこれ思案中です。
よろしくお願いします。