正夫が週に一度の休日を自宅アパートで過ごしていると、深夜二時ごろドアをノックする音がした。
「だれ?」
久しぶりに夕子が訪れたのかと思い、パジャマのまま起き上がった。
こんな時刻に正夫が居ると知っているのは、夕子ぐらいものとの先入観があった。
どこをほっつき歩いていたのか、いよいよ行き場を失ってここへ舞い戻ってきたのだろうと、同胞を許すような気分で内鍵を回した。
ドアノブを掴んで外側に押すと、廊下を照らす明かりに人影が浮かんだ。
「おっ」
予想外の成り行きだった。「・・・・モーリー、どうしたんだ?」
一度も教えたことのない自宅住所を、どうやって探し当てたのかと、不審の思いで訪問者を見上げた。
「山野さん、すいません。ぼくたち他に行くところがなくって・・・・」
完全に引き開けられたドアの向こうに、もう一つの人影が現れた。
モーリーの背中に寄りかかるように腕をまわす、キャッシーの姿だった。
朦朧とした状態で、立っているのがやっとという感じだった。
「どうやって、ここが分かったんだ?」
やっと寝苦しい残暑が去ったとはいえ、皆がみな眠っているとは言い切れない。
玄関先でのやり取りを、アパートの住民が迷惑に思っているのではないか。
周囲を慮る気持ちが、正夫の語気をつよくした。
「すいません、電話で大家さんに教えてもらいました」
電話番号の交換を避けるわけにはいかず、その代わり呼び出し電話だから極力使用しないで欲しいと念押ししておいたはずだった。
しかし、電話は正夫の住所リサーチに使われた。
腹が立ったが、モーリーの勝ちだった。
押し問答をするわけにはいかないので、やむなく二人を部屋の中に招き入れた。
手早くドアを閉めて、あらためて対処を考えるつもりだった。
「ぼくの家は、見ての通り狭いんだ。・・・・六畳一間と台所しかないんだよ」
だから、キミたちが泊まる場所はないんだと、言外に示したつもりだった。
「ぼくは、台所でも、部屋の隅でもいいです。ただ、キャッシーは疲れきっているので、ゆっくり寝かせてやりたいんです」
襟や袖口にレースをあしらった西洋人形のようなブラウスと、同じ白色のふんわり膨らんだスカートが、皺と汚れで痛々しく見えた。
「着替えなんて、ないからな」
正夫は、押入れから客用の布団を引きずり出した。
最後に夕子が使ったまま、シーツだけ外してあとは陽光に当ててもいなかった。
バスタオルとタオルケットを取り出し、寝具をセットした。
「これがシーツ代わり・・・・」
椰子の木と南国の少年をあしらった絵柄のバスタオルが、気恥ずかしい記憶を呼び戻した。
汗まみれの交合の最中、敷布と二枚重ねにしたバスタオルの少年に、下から覗き込まれているようなこそばゆさを感じたことがあった。
後から夕子に告げると、顔を赤らめることもなく「嫌ねえ」と正夫の肩を突いた。
「エッチなんだから・・・・」
知り合って三ヶ月も経たないころのことである。
そのとき、夕子という女性が案外、セックスにタブーを持たないタイプなんだと気づいた。
緊張が解けると同時に、拍子抜けしたことを思い出していた。
伸べた布団に、モーリーがキャッシーを横たえた。
正夫は、自分の寝具を壁際まで引きずって行った。
そうしたところで、所詮六畳一間の居室である。
キャッシーとの間に、四十センチほどの隙間を作るのがやっとだった。
「キミだけ台所というわけにもいかないだろう」
正夫は、疲れた様子のモーリーを見やった。「・・・・まだ寒いことはないから、そこで寝たらどう?」
二つの布団にはさまれた一条の緩衝地帯を指さした。
正夫に言われるまま、むき出しの畳の上にモーリーが横たわった。
「山野さん、ほんとにすいません」
東京弁なのだろうか、何度か耳にするうちに、モーリーの癖の一つと思うようになっていた。
(相変わらずシャレたシャツを着ている)
正夫は、横向きに膝を曲げた少年の衣装に気を取られていた。
モーリーの垢抜けたセンスに対して、羨望を抱く自分を意識していた。
(こんな仕立てを、日々着用する奴がいるんだ・・・・)
折り返しの付いた襟と袖口の始末が、出来合いのシャツとはまったく違っている。
上質の芯と丁寧なミシンの縫い目から、モーリーを包む環境がそれとなく想像できる。
彼の衣装と母親の経営する服飾専門学校は、どこかでつながりがあるのだろうか。
フーテン族は、中身が薄く、精神性にも乏しい仇花のように見られている。
唆されて、商業主義に乗せられた、一群の根無し草・・・・と。
マスコミが喜び、ムーヴメントを画策できる恰好の集団。
もしかしたら、モーリーは母親の仕組んだ広告塔なのかと、あらぬ疑いが脳裏をよぎった。
正夫に背を向けて眠るモーリーの肢体が、生地のブルーとあいまって、海辺の砂に打ち上げられたヨットのように見えた。
白いスカートから打ち身の脚を覗かせるキャッシーの寝姿に、正夫の視線が泳ぐ。
ラリっていれば転びもしようし、駅の階段に打ちつけることもあるだろう。
肌理の細かいバターを塗ったような皮膚、薄紫に色を増してきた内出血の痕が、庇護の手を招いているように見える。
モーリーが眠っているのを横目に、正夫はキャッシーから目が離せなかった。
南国の少年が、この夜も覗こうとしている・・・・。
クスリが介在する異様な浜辺には、眠り姫と三人の男がいた。
歯軋りをしながら、モーリーが寝返りをうった。
うつ伏せになった状態で、もがくように手足を動かす。
引き潮に抗して、その場に止まろうとする動作にも見える。
「あうゥ」
キャッシーが、乱れたドレスをさらに変形させる。
目撃しているのは、正夫と茶色い肌の少年だけだ。
形だけのヒッピー思想がもたらした、馴れ合い風俗・・・・。
徴兵制度もなく、反戦のポーズも恰好が付かなくなっている。
キリスト教的価値観の否定といっても、核となる宗教が希薄な日本では克服すべき対象がないに等しい。
そうした中、ドラッグと性の解放は感覚の麻痺を伴って潜行している。
モーリーもキャッシーも、とりとめのない乱交に引き込まれたり、弾き出されたりしているのだろう。
正夫はうつ伏せの二人を交互に見ながら、妄想を取り除けようと頭を振った。
フーテン族には、魂の解放も、伝統的文化の否定もなしえなかった。
音楽や薬物の力を借りてニセの高揚感を演出し、行き場のない若者たちを巻き込んでいったにすぎない。
性の共有を謳ったカルト集団に、未熟なハイティーンが吸収される現象も話題を呼んだ。
大方の知識人は、精神と肉体における野合に眉をひそめた。
正夫は、しばらく二人の寝姿を見守っていた。
奔放に見えて、横顔に疲れの色が滲み出ていた。
正夫が楽観したような漂着場所は、本当にあるのだうかと自問した。
こんな所まで押しかけてきて、他人の好意に縋ろうとしている。
彼らにとっては愛を確かめる行為かもしれないが、正夫のなかに芽生えていたのは冷ややかな計算だった。
正夫の困惑は、後悔をともなった。
わずかな労りの気持ちは、モーリーの出自に対する憧れのようなものだった。
素性のはっきりしない若者なら、同情もなく追い返したに違いない。
卑屈な自画像を描くことで、正夫は自虐的な感覚を味わっていた。
住所を知られた以上、この先どこまで踏み込まれるか分からない。
二度と泊まりに来ないように、賃貸契約書の特約条項を見せてやろうと姑息な手段を考えた。
そこには、親密な客でも、大家の了解なしに他人を泊めてはいけないと明記してある。
夕子のときにも、度重なる宿泊がもとで揉めた。
契約者以外の宿泊は、基本的に許されていないのだ。
断りの手段を思い巡らしているうちに、正夫一人が寝そびれていた。
うなされるような時間が流れ、夜明けを迎えた。
窓から見える風景は、隣との境の塀を越えて台形の空を青紫色に染めている。
中野の黎明も捨てたものではない、と思い返す。
冬季になれば、富士山だって見えるのだ。
日々タブロイド新聞の印刷に追われている職場では、秘密保持のため外の風景とは遮断されている。
暗示的だが、逸早く目にするスクープ記事も、目から口への回路を遮断されている。
過去の学生運動も、家族に関わる喜怒哀楽も、何ひとつ意味を持たなかった気がする。
夕子に寄せる思いにも、モーリーやキャッシーに注ぐ眼差しにも、上手く繋がっていかないもどかしさを感じる。
(他人との関係に、自信を失ったのだろうか)
サルトルやカフカを読み返そうとしても、いったん切れた思索への道は、そう易々と見つけられなかった。
(つづく)
またまた思いもつかぬ展開。
この小説、1~5回まで主人公を中心に男女入り乱れて流れてきましたが、今回は……?
このモーリーとキャッシーという若い男女、その出自などは素通りさせ、しかし、なぜか引き込まれるように描いていく。
その技法は、次回以降への伏線を敷いているようでもあり、読者を惹きつけます。
なんだか異様な展開になるだろうと思わせつつ、その実体らしきことをチロリとしか表さないところに面白味が募りました。
(丑の戯言)様、コメントありがとうございます。
戸惑いの多い展開かもしれませんが、最後までお付き合いください。
読んでいってもまだこの男女のことがはっきりせず、ついに1回目から改めて読み直していったら3回目に出てきていました。
うーん、どうも脳の老化現象で何週間前かの登場人物が記憶に残っていなかったようです。
しかし、ちょっと負け惜しみ風に言えば、記憶に残りにくいのは3回目に登場したときその人物が何か印象的なドラマを予感させることなく終わり、以後突然6回目に登場するまでその気配を感じさせることもなく過ぎてきたせいであるのかも・・・なんて。
いやいや、やっぱり私の記憶量減退のせいというのが正しいのでしょう。
すいません。
この二人が物語を前へ進めるエネルギーを発してくれれば、さらに面白い小説になるのだろうとこれからに期待しています。
この作品では、一つの時代を共有した三人の若者(グループ)を描こうとしています。
正夫、夕子、モーリー(キャッシー)。
彼らの行動を順次追いながら、最後は時代のエネルギーのもとで一つに結集・燃焼させる。
次回はもう一度モーリーが登場し、穏やかな水面に波を立てます。
政治的・思想的に取り上げられることの多い60年代、70年代の出来事を、より人間にひきつけて描きたいのです。
身の程知らずの挑戦ですから、破綻に終わるかもしれませんが、もうしばらくお付き合いください。