どこで遇ったのだろう
この紫とは・・・・
時代も場所もはっきりしないが
なぜか脳の中枢がシクシクするのだ
むらさき地に楚々とした白を配して
花町の匂いが嗅覚器をゆする
戦前に花開いたアヤメの系譜なのか
それとも香を焚きこめた裾のそよぎか
満州あやめの咲く暇もなく
街から赤線の灯は消えた
消え残った灯火の名残りが
この紫だったのか
郷愁に駆られて洲崎をめぐったが
格子戸の奥から顔をのぞかせたのは
年老いた「あがりの女」ばかり
軒先には呆けたタンポポが風待ちしていた
なんとでも言うがいいさ
欲望は時代をこえて素っ裸
赤い蹴出しを隠そうが
むらさきの帯をタンスに収めようが
あっけらかんと春が来て
マンシュウアヤメが草地を覆うとき
化粧の残り香が風に乗る
引き攣る花弁の微かな憂いも・・・・
ああ 中枢がシクシク痛む
マンシュウアヤメの記憶が痛む
(『春秋のマンシュウアヤメ』2015/11/21より再掲)
あの時代は随分、遠く彼方にいってしまいました。
小浜だったか今は聴く事の無い三味の音が
格子戸の向こうから聴こえて来た様な・・・あれは幻聴だったのかな。
不気味なほど静かすぎる夜の花街でした。
たかさんのブログを読ませていただきました。
旅行で立ち寄られたんですね。
興味深いレポートで、調べたら北前船で栄えた本格的な花街なんですね。
ほんとに、三味の音が聞こえてきそうな写真で、素晴らしかったです。
ぼくは、『折れたブレード』という小説で、金沢のひがし茶屋街や主計町茶屋街を舞台にしたことがあり、ことのほか近しさを感じました。
今回の詩は、深川の洲崎ですが、倫理的な観点とは別に、そこで生きた人びとの喜びや悲しみが、当時はまだほのかに残っていて、根源的な哀しみを感じたのでした。