なにを言うのかと、不満もあらわに、立会いの係官を振り返った。
「しゃべらなくても、会話をしているんです・・」
きびしく思いを口にしながら、声を荒げなかったことで、なんとか治まりは付きそうだと直感した。
年恰好をみても、看守と呼ばれる職業に就いて、かなりの経験を積んできたはずの男である。制帽の下の表情は判らなかったが、定位置で平然と立っている姿勢からは、おれの言葉に、ことさら反応した様子は見られなかった。
むしろ、挑発するぐらいの気持ちで先制打を放ち、面会をコントロールしているのかもしれない。それが彼らの楽しみになっている可能性もあった。
おかげで、金縛りがいっぺんに解けた。この場の状況に即して、急に頭が働き始めた。
「すみません、もう少し時間をいただけませんか」
おれは、言葉を選んで申し立てた。
係官はあっさりと認めた。
こちらの対応の仕方に満足したというわけではなく、単に、面会時間の経過がまだ規定の半分以下という理由からだったろう。
「ミナコさん・・」
おれは、まず呼びかけることで、会話をつないだ。そうして弾みをつけると、あとに続く言葉がつぎつぎと湧いてきた。
「寒くなかったですか。風邪など、引きませんでしたか」
「どなたか、面会に来ていますか。・・なにか、欲しいものはないですか」
おれの、そうした問いかけに、ミナコさんの表情も和らいでいった。
「それで、裁判の準備は?」
ほんとうに訊きたいことは別にあったが、現状を把握するのが先だった。
「姉が手配してくれてるから、心配ないわ」
横浜に住む姉夫婦が、何かと面倒を見てくれていることは聞いていたが、こうした事件がらみのときに、普段と変わらずに接してくれる身内がいて、どれほど心強いかとミナコさんの胸中を思いやった。
おれの顔に、安堵の表情が浮かんだのかもしれない。
「ほんとに、安心してていいのよ」
ミナコさんが、微笑んだように見えた。
なぜ、おれに知らせることなく、姿を消してしまったのか。どんな理由で、仙台あたりに滞在していたのか。おれのことを、いま、どう思っているのか。・・聞いてみたいことは、たくさんあった。
だが、それらは、この場で訊けることではなかった。
再び、会話が途切れた。
「面会時間終了です」
すかさず、係官が宣告した。
まだ、ニ十分も経っていないはずだった。おれが腕時計を見て、怪訝な表情をすると、
「このあと、面会者がたくさん待ってますので、終わりにします」
ガラスの向こう側で、ミナコさんが先に動いた。
「きょうは、ありがとう。来てくれて、うれしかったわ」
「また来ます。お元気で・・」
「ありがとう。今度は、前もって手紙で教えてください。弁護士さんや、姉と、面会日が重ならないようにしますから」
「すべてが終わったら、ぼくのところへ戻ってきて・・」
係官が、おれを連れ出すために、寄ってきた。
振り返って、手を振った。
ミナコさんも小さく手を上げたが、すぐに、姿が見えなくなった。
係官に礼を述べて、エレベーターに乗ろうとした。
時間とともに面会者が増えてきたのか、上階から降りてきた二人連れの婦人と鉢合わせしそうになった。二階に停止したのを、一階に着いたものと勘違いした様子であった。
扉が開くと、おれは、先に出た。勝手知ったる拘置所の廊下を急ぎ足で歩き、検査室に戻った。面会が済んだことを告げ、ロッカーからショルダーバッグを取り出して、帰途についた。
通用門を出て、数歩あるいた後、おれは立ち止まった。
視界に入ってくる風景は、あまり心を動かされるものではなかった。錆びた家並みと、空を切り裂く高速道路の圧迫感。ひとつの世界から、別の世界に帰還を果たしたという感激が湧いてこなかった。
刑が確定して、護送バスで連れ去られるのならともかく、たとえ無罪放免を勝ち取ったとしても、門を出て目にする風景は、希望が膨らむような予兆を含んではいなかった。
差入れ屋の白地の看板を横目に、おれは右に進路を取った。
延々と続く満身創痍の塀に沿って行くと、急に赤レンガの塀に変わった。内側にかなりの高さをもつ広葉樹が、等間隔で並んでいる。ちょうど若葉の季節を迎えて、ここばかりは生命の輝きに満ちていた。
理由は、すぐに判った。
一部分だけ残された古いレンガ塀は、拘置所の正門を飾るシンボル的建造物だったのだ。
防備面の補強は、実用としての高い塀が担っている。レンガ塀は、戦前からの文化遺産として保存されたのだと、何かの本で読んだような気がする。
敷地内の立ち木は、ケヤキだろうか。
柔らかな緑の葉が、さわやかな風を受けて、光を反していた。裏返った白色交じりの緑葉が、レンガの赤に映えた。
おれは、こちら側の道を回ってきてよかったと喜んだ。
左手に目を向けると、首都高の先に、荒川が見えた。遮蔽物に遮られて、全貌こそ捉えることはできないが、掘割と見紛う綾瀬川の陰鬱な道とは、雲泥の差だった。
ほどなく、小菅駅に到着した。
北千住で乗り換えて、上野に着いた。
おれは、構内で、たたら出版に電話を入れた。留守を預かる学生のオペレーターに、午後から出勤することを伝えた。
飯田橋の尾張屋で、天ぷらそばを頼んだ。
疲れていたせいか、丼ものを食うほどの食欲はなかった。
もりそばや、ザルそばでは、午後の仕事に自信が持てなかった。「・・因って、天ぷらなのじゃ」
おれは、自分を納得させて、少々高めのメニューを選んだのである。
出社すると、すでに多々良は戻って来ていた。
一日掛かりと踏んでいたおれが、思いのほか早く出勤したので、喜んでいるのは間違いなかった。だが、多々良の顔には、きょうの面会についての興味が、ありありと表れていた。
「紺野くんのことで、相談したいことがあるから、ちょっと付き合ってくれないか」
おれは、多々良社長に、ルノアールに引っ張り出された。
どうせ訊かれることは分かっていたから、食後のティータイムのつもりで相伴した。尋ねられるまま、拘置所の様子を話していると、先刻まで必死に体験してきたことが、寸分の狂いもない事実のように、すらすらと想起されてくるのが不思議だった。
(・・おかしいな)と、いぶかしむ気持ちがあった。
ひとたび、おれが口に出してしゃべれば、それを聞いた多々良の頭には、おれの描いたとおりの映像が焼き付けられることだろう。
だが、それは、おれが見たものであり、感じたことに過ぎないのだ。おれが描いて見せた拘置所風景の中に、おれの気付かなかった危険や、腐敗が隠れていたとしたら、おれのレポートはどれほどの意味を持つのだろうと疑っていた。
「こんなところですけど、よろしいでしょうか。なにせ、慣れないもので疲れました・・」
「そうだろう、分かるよ。・・きみ、ここで少し休んできなさい」
多々良は、伝票を掴んで、先に戻った。
おれは、大き目のカップにまだ残っているコーヒーを啜りながら、きょうの出来事を振り返った。
拘置所の描写はどうでもよかった。多々良に伝えたこと以上に何かがあるわけでもなく、手抜きしたわけでもなかった。
唯一、まだコトバにしていないことと言えば、おれとミナコさんを隔てるガラス板に穿たれていた、音声伝達のための無数の穴についてである。
前後、左右、斜向かい、互いに手を伸ばして、誰ともぶつからないようにして始めるラジオ体操のように、穴たちは整然と並んでいた。
あの穴を穿つためには、ガラスよりは強化プラスチック板の方がよほど現実的だ。だが、強化ガラスでは無理なのかと考えると、まったく分からなくなる。そして、さらに分からないのは、穴が持つ不自然な作用についてだった。
おれは、ミナコさんと短い会話を交わしながら、実は、穴をくぐって来る音声の無機質さに苛立っていた。声からぬくもりが奪われている。音色という文字から、色の字が消し去られたようなものだった。
いま、この広々とした喫茶店でコーヒーを飲んでいると、新宿御苑に近い連れ込み宿で、ミナコさんと初めて肌を合わせたときの歓びが甦ってきた。中野のアパートで、幾度も交わした愛の営みの、無言の会話が思い出された。
(ミナコさんは、必ず、おれのところに戻ってくる・・)
おれは、祈るように左右の指を組み合わせた。
(続く)
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