続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

マグリット『弁証法礼讃』

2015-06-06 07:04:49 | 美術ノート
 建物の窓から家(建物)が見える。窓からの景色として家(建物)が見えるのが普通であるが、これを『弁証法礼讃』と題している。

 窓(部分/ピース)から建物(全体)が見える。部分の情報は全体に等しいという論理がある。
 しかし、ここでは窓という大掴みな観点からは同じであるが、明らかに形体の異なる窓枠の家が奥に鎮座している。観音開きの窓は同じであるが、桟(横木)やカーテンのフリルなど細部に違いがある。
 つまり、全く同じ物が入れ子のように見えているのではない。

 建物の中の建物は、一見同質に見える。
 しかし、凝視すると、まるで違う形態を呈していることが分かる。
 
 ただ、人が住むという環境においては何ら問題なく同質であることは疑いようがない。

 つまり、人はそれぞれ同じに見えても、まるで異なる条件を持って生きている。

 それで「いいのだ」という楽観だろうか、「根本的相違の提示」だろうか。暗い室内は沈黙しているかのようである。明るく描かれた前景の窓枠は狂いのない機械的な大量生産を思わせる。
 どこか薄っぺらな表情であり、室内に見える建物も二次元の紙のような平板さがある。


 深層心理の底の底・・・導き出された答えに讃えるべき答えはあるのだろうか。
 (精神的な)窓の中に潜む(真相の家)、わたしには、もう一人のわたしがいる。ほとんど酷似の体であるが、まるで異なるわたしがいる。この合体がわたしの正体である。見えるように見ることへの礼讃。沈思黙考のマグリットである。

(写真は国立新美術館『マグリット展』図録より)

『城』1984。

2015-06-06 06:31:04 | カフカ覚書
「またバルナバスのことをおっしゃる!」と、フリーダは叫んだ。「わたしは、彼がよい使者だとはしんじられないわ」「おそらく、きみの言うことが正しいかもしれん。だけど、彼は、ぼくのところに派遣されてくるただひとりの使者なのだよ」


☆「またバルナバス(北極星→死の入口/生死の転換点)のことを!」と、フリーダ(平和)は叫んだ。「あれがよい小舟だなんて信じられないわ」「たぶんきみの言うことが正しい。しかしながらあれは先祖からの小舟なのだよ」