続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

捨てる。

2015-06-28 07:08:52 | 日常
 あれも欲しい、これも欲しいと思った若いころ。今でも思いは同じかもしれないけれど、許容量を考え躊躇し、さらには、そうして手に入れたはずのものを捨てている。

 これが案外難しい。「これは!」ふと手が止まる。形あるものには思い出があるから、時代の記憶がよみがえり、時の流れの中に迷い込んでしまう。

「これは要りますか?」「いいえ」
「これはどうですか?」「・・・」

 シンプルに山頭火(茶碗と箸)の心意気を倣いたい。

「同じ物を二つ欲しがってはいけません」という義姉の忠告にもかかわらず同じような着衣を衝動買いしている。非個性的な目立たない無難な衣服は並べてみると同じ景色。「なんで、どうして?」「わかんない」

 分かんない物だらけのごみの山に呆然としながら、迷いを棄てて仕舞い込む業。


 それでも(捨てなくては!)の強迫観念がわたしを揺さぶる。これとこれ・・・何か出し惜しみをするような態は滑稽ですらある。
 
 食器類も同じこと。ちょっと無理して購入したけど、単にみすぼらしい食器棚に見栄を張っただけの無用の長物。
(捨てましょう、使ってもいない場所ふさぎは)無理にも納得させ、いくつかを紐で括りつける。


 今頃になって(もう、あれは無いのね)と、逃がした魚を追うような眼をしている。


 しかし、人間には忘却作用が備わっている。昨今増幅しているその作用は、捨てた物への未練を断ち切ってくれるに違いない。自分だけはとりあえず捨てなければ、あとはもう・・・でも、パソコンは持っていかないで!やっぱり、すっきりというわけにはいかない。

『冬のスケッチ』151(了)

2015-06-28 06:38:06 | 宮沢賢治
         ◎
  霧のやすけさは天上のちゝ
  精巧のあをみどろ水一面をわたり
  はちすさやかに黄金の微塵を吐けば
  立ちならぶ岸の家々
  早くもあがるエーテルの火


☆無に転じることが常である。
 照(あまねく光があたる=平等)の考えを推しはかる。
 逸(隠れて)綿(細く長く続く)講(はなし)は、金(尊いこと)の美を忍ばせた図りごとである。
 律(物事の基準になる決まり)の眼(かなめ)は、化(教え導くこと)であり、荷(身に引き受け)想(思いめぐらせること)の果(原因があって生じるもの)である。

『城』2005。

2015-06-28 06:21:36 | カフカ覚書
彼は、校門のところに立っていたが、あたりには人影もなかった。例の助手は、もう何時間もまえに追放し、かなりの道のりを追いまわしていった。やがてどこかの庭と小屋のあいだに隠れたのか、見つけだせなくなってしまったが、それきり二度と姿をあらわさなかった。


☆彼は考えだされた(想像上の)入口(死の入り口)に立っていたが遠くのほうにまで死んだ先祖がいた。
 助手(脳/知覚)はすでに何時間も前に追放され、かなりの時間を延ばされ追いかけられていた。
 その時助手(脳/知覚)は、警戒しているあいだに隠され、見つけだせなくなり、再び前に現れることはなかった。