続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

マグリット『神々の怒り』

2015-06-08 07:21:36 | 美術ノート
 走る馬と「それいけ!」と鞭をふるう騎手が、乗用車の上に乗っている?
 後ろの片足が車のトップに着地している。車は止まっているのか走っているのか定かでないが、運転手はハンドルに手を置き、紳士は座席で何事もないかのように悠然としている。

 おかしいでしょ、この光景、明らかに次の瞬間には大惨事を招くこと必至。

 正しい者の道は平らである。(略)
 落ち着いているならば救われ、穏やかにして信頼しているならば力を得る」。しかし、あなたがたはこの事を好まなかった。かえって、あなたがたは言った、「否、われわれは馬に乗って、とんで行こう」と。(略)それゆえ、主は立ちあがって、あなたがたをあわれまれる。主は公平の神でいらせられる。すべて主を待ち望む者はさいわいである。(略)
 わたしのほかに神はあるか。(イザヤ書)


「わたしのほかに神はない」という唯一神の信仰に対し、地球上にはありとあらゆる信仰の神が存在する。
 神々というからには、唯一神ではない。

 普通ならば『神々の怒り』は作品の中にあり、鑑賞者の納得を得るものである。しかしこの作品の場合、怒る神々は作品の外にいるのではないか。

 描き出されたこの絵の情報・・・。
 車の上に馬が乗る状況自体が異常であるのに、車中の人の穏やかさ。
 走る車の上に飛び乗ることなど有り得ない暴挙であり、進行する車の前に飛び降りることは惨劇である。道は平らであり、車を乗り越えなければならない理由は一つも存在しない。


 あらゆる神は、生きるための信仰である。「生命の尊厳を庇護する」これを置いて他にない。
 この一瞬先の死を連想させる一見穏やかな図に対し、神々は嘆息し怒りを抱いている。

『神々の怒り』は死に対する恐れに無知なことである。そして加えるならば、「神はほかにも存在する」という神々の怒りかもしれない。

(写真は国立新美術館『マグリット展』図録より)

一家五人。

2015-06-08 06:56:29 | 清一朗
 いつの間にか一家五人。三人の子育て大変だね、よく頑張っていると思う。

 にこにこ機嫌のいい赤子の恵ちゃん、走り回る春ちゃん、大人しい清ちゃん。
「お前も大変だね」と息子に声を掛けたら、
「いや、朋子の方が大変だよ」と妻を労わる。ボーットしていた息子が家事や育児全般に気を使っている。わたしの息子ではなく、新しい家族の中に生きている。(良かったね、身体を大切にね・・・)

 清ちゃんからは、破棄しようとしていた絵に「上手に描けているよ」と、慰めの言葉をもらった。(本当にお前もいい子だよ)

 今回もいろいろ遊んで、いろいろ絵も描いてくれた。その中の一枚、工場か何からしい。

『城』1985。

2015-06-08 06:17:21 | カフカ覚書
「それだけにいっそう始末がわるいわ。あなたは、それだけにいっそう彼に用心なさらなくてはいけないとおもうわ」
「残念ながら、いままでのところ、用心なくてはならないような理由を彼があたえてくれたことはなかったね」と、Kは笑いながら言った。「あの男は、めったに来てくれない。それに彼がもってくるのは、つまらぬものばかりだ。ただ、それがクラムからじかに出ているという点で価値があるにすぎない」


☆「ますます不快だ」と、フリーダ(平和)は言った。もっと彼に警戒すべきです。悲しいことに今まではこれに対する動機がありませんでした。と、Kは笑いながら言った。彼はめったに来ることはないのに、不要なものを持ってくる。ただ、クラム(氏族)にずばり起因しているという点では大いに価値がある。