〔安池先生の授業〕
近代編(海と共に生きる)
三浦半島は海路における江戸城への中継地でした。榎戸は停泊地であり、横須賀村泊りなどの記述を見ることもできます。元禄以前の三浦半島には初声はなく、元禄の地震で盛り上がって開発されたのが今の初声です。
森崎から前は海で、久里浜は大きな入江だったのです。(三崎、久里浜、浦賀などの入江)
番所は三崎と走水にあり、三崎は江戸から関西方面への荷物の検分、走水は江戸へ向かう御船の検査を行いました。(享保まで番所のない時代は続いています)
明治六年安針塚の風景キャメロード号/台の上に大砲を積んでいましたが数百メートルくらいしか飛ばず、相手が遠くにいても打つことはなく、単に脅威を与えるというに過ぎない物でした。(19世紀までこの程度の大砲でした)
1618.3.17裕福な長崎の中国人「肥後4官」が交趾へ。
同年5.4平戸の回航し、アダムスが下船しました。
400年前、イギリス人が見た浦賀湊(1613.9.21)→スライド画面。
予(ジョン・セーリス)は小舟で江戸から浦賀へ来ています。
その港を精査するためにスペインの持つ船体の買い入れについて(ウイリアム)アダムスと値段掛け合いをするためとかつ彼がスペインに代わって売るためにその他に持っていた数種の都産の商品などを見るためでした。
この間浦賀に滞在。
「浦賀は停泊にははなはだよい湊でそこへはロンドンの前のティムズ河におけるごとく船が完全に停泊することができる。平戸を棄てて浦賀を選ぶべし(ジョン・セーリス/日本渡航記)ちなみに、選ばれることはありませんでした。
浦賀が貿易港にならなかった理由は、いわゆる貿易制限、キリシタン禁止の時代へ入っていったことです。
しかし、反対に国内的には浦賀湊繁栄時代でありました。
高瀬舟、弁財船(荷船)の全盛期
大阪、紀州を回り、東でなく(遠州へはよらず)南へ向かい、途中、黒潮に乗り江戸へ向かう方が、早く荷を届けられた由。
浦賀湊の利点は奥深く、和船80~100艘収容が可能と言われました。
浦賀の船改番所の役人は無給でしたが船一隻当たりの手数料がありました。
押送船(おしょくりぶね)生魚のため素早い検問、他製品を積み、偽って直通した船もあったようです。
箱崎の石切り場から、品川お台場へどた石を運ぶ船があり、十三峠を越えるより早く行き来ができました。
江戸時代~明治十年代の水運図によると、大山参りのため野島と富津(千葉県)に航路がありました。
沿岸漁労の船(茶船等)
猟船・旅猟船(わかめ・かじめ・てんぐさ・さざえ・あわび・低魚全部)
小規模な藻打網漁(蛸壺漁)
鴨居の鯛を捕る船
釣縄船漁
イワシを捕る八田網漁
すべては江戸城へ。(天保年間の日本橋市場)海陸併用ルート/鮮魚のみではない。幾つかのルートがありましたが、海に因らず、陸路の行路(田越川~榎戸)もあり、明治時代には夏場使用の製氷の室もありました。
弘化三年アメリカのビッドル提督/蒸気船(石炭)
そのころ和製様式帆船完成「鳳凰丸」(部品を注文したところクリミア戦争の最中で断られたという話もあります)
万延元年の遣米使節団派遣から155年、ペリーと交わした日米和親条約(嘉永7年)日米修好通商条約(安政5年)
初めて近代的な外交使節/ネイビーヤードに滞留し候説は、自然と器械の工用を熟視し、帰国の上、大いに益あらんと思えばなり。(記録より)
フランス公使ロッシーとヴェルニー。
元治元年11.3 ロッシと勘定奉行小栗上野介忠順が会見し、翌日に製鉄所建設責任者にヴェルニーが適任と回答。
明治4年(1871)に完成。
安池先生、ありがとうございました。
※「西浦賀には、今の浦賀病院やかつての浦賀奉行所より先には住居はありませんでした」というお話。
燈明堂の傍に首切り場(処刑場)があり、居住地ではなかったのかもしれない。船着場があった由。
近代編(海と共に生きる)
三浦半島は海路における江戸城への中継地でした。榎戸は停泊地であり、横須賀村泊りなどの記述を見ることもできます。元禄以前の三浦半島には初声はなく、元禄の地震で盛り上がって開発されたのが今の初声です。
森崎から前は海で、久里浜は大きな入江だったのです。(三崎、久里浜、浦賀などの入江)
番所は三崎と走水にあり、三崎は江戸から関西方面への荷物の検分、走水は江戸へ向かう御船の検査を行いました。(享保まで番所のない時代は続いています)
明治六年安針塚の風景キャメロード号/台の上に大砲を積んでいましたが数百メートルくらいしか飛ばず、相手が遠くにいても打つことはなく、単に脅威を与えるというに過ぎない物でした。(19世紀までこの程度の大砲でした)
1618.3.17裕福な長崎の中国人「肥後4官」が交趾へ。
同年5.4平戸の回航し、アダムスが下船しました。
400年前、イギリス人が見た浦賀湊(1613.9.21)→スライド画面。
予(ジョン・セーリス)は小舟で江戸から浦賀へ来ています。
その港を精査するためにスペインの持つ船体の買い入れについて(ウイリアム)アダムスと値段掛け合いをするためとかつ彼がスペインに代わって売るためにその他に持っていた数種の都産の商品などを見るためでした。
この間浦賀に滞在。
「浦賀は停泊にははなはだよい湊でそこへはロンドンの前のティムズ河におけるごとく船が完全に停泊することができる。平戸を棄てて浦賀を選ぶべし(ジョン・セーリス/日本渡航記)ちなみに、選ばれることはありませんでした。
浦賀が貿易港にならなかった理由は、いわゆる貿易制限、キリシタン禁止の時代へ入っていったことです。
しかし、反対に国内的には浦賀湊繁栄時代でありました。
高瀬舟、弁財船(荷船)の全盛期
大阪、紀州を回り、東でなく(遠州へはよらず)南へ向かい、途中、黒潮に乗り江戸へ向かう方が、早く荷を届けられた由。
浦賀湊の利点は奥深く、和船80~100艘収容が可能と言われました。
浦賀の船改番所の役人は無給でしたが船一隻当たりの手数料がありました。
押送船(おしょくりぶね)生魚のため素早い検問、他製品を積み、偽って直通した船もあったようです。
箱崎の石切り場から、品川お台場へどた石を運ぶ船があり、十三峠を越えるより早く行き来ができました。
江戸時代~明治十年代の水運図によると、大山参りのため野島と富津(千葉県)に航路がありました。
沿岸漁労の船(茶船等)
猟船・旅猟船(わかめ・かじめ・てんぐさ・さざえ・あわび・低魚全部)
小規模な藻打網漁(蛸壺漁)
鴨居の鯛を捕る船
釣縄船漁
イワシを捕る八田網漁
すべては江戸城へ。(天保年間の日本橋市場)海陸併用ルート/鮮魚のみではない。幾つかのルートがありましたが、海に因らず、陸路の行路(田越川~榎戸)もあり、明治時代には夏場使用の製氷の室もありました。
弘化三年アメリカのビッドル提督/蒸気船(石炭)
そのころ和製様式帆船完成「鳳凰丸」(部品を注文したところクリミア戦争の最中で断られたという話もあります)
万延元年の遣米使節団派遣から155年、ペリーと交わした日米和親条約(嘉永7年)日米修好通商条約(安政5年)
初めて近代的な外交使節/ネイビーヤードに滞留し候説は、自然と器械の工用を熟視し、帰国の上、大いに益あらんと思えばなり。(記録より)
フランス公使ロッシーとヴェルニー。
元治元年11.3 ロッシと勘定奉行小栗上野介忠順が会見し、翌日に製鉄所建設責任者にヴェルニーが適任と回答。
明治4年(1871)に完成。
安池先生、ありがとうございました。
※「西浦賀には、今の浦賀病院やかつての浦賀奉行所より先には住居はありませんでした」というお話。
燈明堂の傍に首切り場(処刑場)があり、居住地ではなかったのかもしれない。船着場があった由。