続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

三浦半島の歴史6。

2015-06-18 06:28:58 | 博物館講座
〔菊池先生の授業〕

《三浦半島の近代》

「いつから近代かということになりますと、やはりペリー来航以降であり、それ以前を近世と位置付けています。横須賀は近世の始まりの拠点です。ペリー来航は1805年ですから今年は150年目ですね。
 あの富岡製糸所はヨコスカ刻印の煉瓦(フランドル積み)が富岡製糸所で発見されたことでもわかるように、横須賀製鉄所の技術を持って造られたといっても過言ではありません。フレンチトラス構造は横須賀と富岡を結ぶフランス発の力学でもありました。(フランス語のMetre/一尺が303㎜)

 横須賀の歴史遺産としては上町の看板建築などがありますが、何といっても横須賀製鉄所の副首長官/旧ティボティエ官舎があります。2001年6月末に解体撤去の一報が入り、8月中に調査の実施とその成果報告が求めらたので、博物館関係者をはじめ研究者やボランティアの方々の協力、総力あげての調査になりました。なお、横浜開港館に堤家の古文書があり、その設計図なども残されていましたので照合し確認いたしました。

 西洋のトラス構造で、骨組みを三角に組み上げると強固な建物になるという力学的手法です。細い柱で大空間ができ、富岡製糸所などもこの手法が用いられています。撤去の理由にはシロアリ被害がありましたが、その場所は戦後の増築部分でした。
 木骨煉瓦造り/壁を削った結果、石積み煉瓦(木の柱の間に煉瓦を詰める)を確認いたしました。(タイルにはミカホの文字がありましたが氏名の由)
 石積み技法はブラフ積み(長短と交互に組み合わされている)、横浜山手なども共通。
 明治期の洋風建築の現存ということで、解体調査の後改修し、再構築され2001年保存の決定に至りました。

 セメントの国産化を伊藤博文に見識し実現しています。(シマン・Cimert/セメント)

 横須賀製鉄所内にはフランス街があり、コロニアルスタイル(ベランダがある)というアジア経由の西洋建築が並びました。


 横須賀製鉄所は日本最大の工場技術研究の中枢でありました。船も回収・建造・灯台の建設・技術者の教育などを担いました。
 官営工場として1865年(慶応元年)に起工、明治4年に完成しています、その竣工式では熱気球を飛ばしました。(ちなみに最初に進水した船は横須賀丸)
 1号ドックはその耐震性への不安から半島を切り崩して建設されましたが、その際ナウマンゾウの化石が発見されています。(当初はゾウとしか認識されていませんでしたが、その後ナウマンゾウが発見されたことで確認に至りました)
 そして、1号ドック、2号ドック、3号の川間ドックに至ります。

 菊池先生、ありがとうございました。

『冬のスケッチ』141。

2015-06-18 06:15:31 | 宮沢賢治
  そのとき瓦斯のマントルはやぶれ居て
  焔は葱の華をなせるに
  見つや網膜の半ばら奪ひとられて
  その床は黒く錯乱せりき
     (白き砂をはるかにはるかにたどれるなり)


☆我は死に拠る縁(つながり)を想う。
 果(終末)の験(証拠を確かめる)/祈祷の効果)を望み、幕(仕切り)を犯し、脱(自由になる)。
 照(あまねく光が当たる=平等)を告げる策(くわだて)を覧(よく見ること)で、ハク(魂)は赦(罪や過ちが許される)。

『城』1995。

2015-06-18 05:56:20 | カフカ覚書
やっとのことで、フリーダは、無言のまま言うことをきいた。Kは、外に出て、雪のなかを歩きだしてみると(もうとっくに道の除雪はできていなければならないところだった。仕事というやつは、なんともふしぎなほどはかどらないものだ)、柵のところで助手のひとりが死んだように疲れきってしがみついているのが眼にとまった。


☆ついにフリーダ(平和)は、静かになり、Kは外に出て馬鹿話をかみしめていた。もうすでに手段はできていなければならない。奇妙なことに現場不在というものはどうしてもゆっくりである。先祖の(脳・知覚)が死んだように疲れきって和解を望んでいるのが見えた。