続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

介護。

2015-06-13 07:03:24 | 日常
 介護、一見虚しい希望のない仕事のように思える。どんなに尽くしても明日をも知れない生命を守ることには、限界と諦念が付きまとう。

 親族、子が親を看取る。当たり前のことが当たり前でなくなっていく。元来、当り前ではなかったのかもしれない。そう思い込まされて、娘が嫁が老人を介護してきた経由に過ぎないのかもしれない。

 直系の者が病床にある人を介護することが必ずしも幸福に結びつかない。心労から我儘が膨れ上がる。
 看てあげているという思い上がりは始末が悪いし、看てもらってるという立場は卑屈を招く。両者に生じる亀裂を埋める術なく日が暮れていく、まさに闘いである。家の中の殺伐は外部には見えない。

 子は育ててもらった思いに心が揺れ、親は慈しんだわが子への愛情に涙する。この関係のバランスが介護を救うけれど、必ずしも持続を可能としない。わたしの場合、人としての良心に折れそうな心を叱咤されていただけだったかもしれない。

 
 長年臥した親(92才)を看取った人の「わたしの介護が足りなかったから」の涙には胸を打たれ敬意を抱いた。(でも、そのおかげでわたしは嫁に行きそびれたわ)の恥じらいには胸をふさがれてしまった。


 介護が犠牲であってはならない。だから今の制度は正しいのかもしれない。
 人が人らしく有意義に生きることの大切さは言うまでもないけれど、老いや病は避けがたく忍び寄る。その時の覚悟、わたしも≪介護される側の覚悟≫に迫られる日が遠からず来るに違いない。



 昨日、義兄の訃報を聞いた。今夕はお通夜、一人娘であったSちゃんを静かにねぎらいたい。

『冬のスケッチ』136。

2015-06-13 06:22:04 | 宮沢賢治
         ◎
  日光きたりて
  いそぎくびすを返すと思ひしに
  そはいみじきあやまり
  朝の梢の小き街燈
    げにもすぎたる歓楽は
    すでに来しやとうたがはる
  露は草に結び
  雲は羊毛とちゞれたり


☆講(話)は、変わる詞(言葉)で調(ととのえる)。
 化(形、性質を変えて別のものになる)章(文章)の照(あまねく光が当たる=平等)は我意であり、祷(神仏に祈る)を勧(すすめる)絡(すじみち)がある。
 記の路(すじみち)は双(二つ)の決(結論)の運(めぐりあわせ)であり、要(かなめ)は、網(残らずとること)。

『城』1990。

2015-06-13 06:06:19 | カフカ覚書
 そのために前進するためには戦わなければならぬ、とりわけ、ずっとしたのほうからよじ登っていく場合にはとくにそうだということを、もう忘れてしまったのかね。なんとか希望をあたえてくれるようなものがあれば、なんでも利用しなくてはならないということも、忘れてしまったのかね。ところで、ブルーンスヴィック夫人は、城の出なんだ。最初の日、ラーゼマンの家に迷い込んだとき、自分でもそう言っていたもの。


☆それにどんな方法で前進するか、深く潜行することを知らないのか。特に希望を与えてくれるようなものがあれば、何でも利用しなくてはならない。夫人(自由)は推論なんだ。ラーゼマンのところへ迷い込んだときそう言っていました。