介護、一見虚しい希望のない仕事のように思える。どんなに尽くしても明日をも知れない生命を守ることには、限界と諦念が付きまとう。
親族、子が親を看取る。当たり前のことが当たり前でなくなっていく。元来、当り前ではなかったのかもしれない。そう思い込まされて、娘が嫁が老人を介護してきた経由に過ぎないのかもしれない。
直系の者が病床にある人を介護することが必ずしも幸福に結びつかない。心労から我儘が膨れ上がる。
看てあげているという思い上がりは始末が悪いし、看てもらってるという立場は卑屈を招く。両者に生じる亀裂を埋める術なく日が暮れていく、まさに闘いである。家の中の殺伐は外部には見えない。
子は育ててもらった思いに心が揺れ、親は慈しんだわが子への愛情に涙する。この関係のバランスが介護を救うけれど、必ずしも持続を可能としない。わたしの場合、人としての良心に折れそうな心を叱咤されていただけだったかもしれない。
長年臥した親(92才)を看取った人の「わたしの介護が足りなかったから」の涙には胸を打たれ敬意を抱いた。(でも、そのおかげでわたしは嫁に行きそびれたわ)の恥じらいには胸をふさがれてしまった。
介護が犠牲であってはならない。だから今の制度は正しいのかもしれない。
人が人らしく有意義に生きることの大切さは言うまでもないけれど、老いや病は避けがたく忍び寄る。その時の覚悟、わたしも≪介護される側の覚悟≫に迫られる日が遠からず来るに違いない。
昨日、義兄の訃報を聞いた。今夕はお通夜、一人娘であったSちゃんを静かにねぎらいたい。
親族、子が親を看取る。当たり前のことが当たり前でなくなっていく。元来、当り前ではなかったのかもしれない。そう思い込まされて、娘が嫁が老人を介護してきた経由に過ぎないのかもしれない。
直系の者が病床にある人を介護することが必ずしも幸福に結びつかない。心労から我儘が膨れ上がる。
看てあげているという思い上がりは始末が悪いし、看てもらってるという立場は卑屈を招く。両者に生じる亀裂を埋める術なく日が暮れていく、まさに闘いである。家の中の殺伐は外部には見えない。
子は育ててもらった思いに心が揺れ、親は慈しんだわが子への愛情に涙する。この関係のバランスが介護を救うけれど、必ずしも持続を可能としない。わたしの場合、人としての良心に折れそうな心を叱咤されていただけだったかもしれない。
長年臥した親(92才)を看取った人の「わたしの介護が足りなかったから」の涙には胸を打たれ敬意を抱いた。(でも、そのおかげでわたしは嫁に行きそびれたわ)の恥じらいには胸をふさがれてしまった。
介護が犠牲であってはならない。だから今の制度は正しいのかもしれない。
人が人らしく有意義に生きることの大切さは言うまでもないけれど、老いや病は避けがたく忍び寄る。その時の覚悟、わたしも≪介護される側の覚悟≫に迫られる日が遠からず来るに違いない。
昨日、義兄の訃報を聞いた。今夕はお通夜、一人娘であったSちゃんを静かにねぎらいたい。