テーブルの上に額装されたブルーチーズの絵が置かれている。
テーブルだとしたらチーズは巨大であり、チーズを普通サイズに考えるならば、テーブルはむしろ高台つきの皿と考えるのが妥当である。高台がついているということは、神さまなどへの捧げものの形式である。
チーズはチーズでなく、単にイメージである。視覚においては共通だが、触覚・臭覚・味覚はなく、平面上の疑似物質に過ぎない。しかし、それにガラスカバーをかける滑稽。
実物は腐食を免れないが、偽物は永遠である(と錯覚している)。見る者は確かにブルーチーズを想起する。ブルーチーズそのもののイメージ、それ以外の何物でもない。時間の眠りを経由した熟成した誰もが知るところのチーズであり、食欲をそそるものである。しかし、決して触れることも食べることも禁止された複写(コピー)のチーズである。
これはブルーチーズだろうか?という疑惑がないわけでもない。しかし、ここまでガードされたこのブルーチーズに嘘があるはずがない。
高台つきの皿の上にうやうやしく乗せられ、よく見えるが決して触れることを良しとしないガラスのカバーが掛けられたブルーチーズの複写(コピー)。
このブルーチーズと鑑賞者を結びつけるものは《信じる》という精神的な意図によるほかない。
イメージはあくまでイメージでしかないが、わたし達は脳の回路をもってイメージ=本物という確信を抱くように習慣づけられた傾向にある。
マグリットの投じた一石。
わたし達がそれと信じているものへの眼差しを揺らし、イメージを過大に奉る滑稽を忠告している。即自的・・・疑いをはさむ余地なく信じることへの警告かもしれない。
(写真は国立新美術館『マグリット展』図録より)
テーブルだとしたらチーズは巨大であり、チーズを普通サイズに考えるならば、テーブルはむしろ高台つきの皿と考えるのが妥当である。高台がついているということは、神さまなどへの捧げものの形式である。
チーズはチーズでなく、単にイメージである。視覚においては共通だが、触覚・臭覚・味覚はなく、平面上の疑似物質に過ぎない。しかし、それにガラスカバーをかける滑稽。
実物は腐食を免れないが、偽物は永遠である(と錯覚している)。見る者は確かにブルーチーズを想起する。ブルーチーズそのもののイメージ、それ以外の何物でもない。時間の眠りを経由した熟成した誰もが知るところのチーズであり、食欲をそそるものである。しかし、決して触れることも食べることも禁止された複写(コピー)のチーズである。
これはブルーチーズだろうか?という疑惑がないわけでもない。しかし、ここまでガードされたこのブルーチーズに嘘があるはずがない。
高台つきの皿の上にうやうやしく乗せられ、よく見えるが決して触れることを良しとしないガラスのカバーが掛けられたブルーチーズの複写(コピー)。
このブルーチーズと鑑賞者を結びつけるものは《信じる》という精神的な意図によるほかない。
イメージはあくまでイメージでしかないが、わたし達は脳の回路をもってイメージ=本物という確信を抱くように習慣づけられた傾向にある。
マグリットの投じた一石。
わたし達がそれと信じているものへの眼差しを揺らし、イメージを過大に奉る滑稽を忠告している。即自的・・・疑いをはさむ余地なく信じることへの警告かもしれない。
(写真は国立新美術館『マグリット展』図録より)