二袋百円のダイソーの種。
今年も去年と同じく「向日葵」と「朝顔」の種をまいた。
(蒔いた種は生える)
当たり前のことを実感しながら、涼しげな朝顔を見ている。
猛暑、小さく息をして小さく生きている。眩しすぎて外へは出られない…どこへも行かない夏、ちょっと淋しいかも。
『ローズ・セラヴィよ、何故くしゃみをしない?』
虫かご(11.4×22.0×16.0㎝)の中に角砂糖くらいの立方体の大理石が沢山入っており、その上にイカの甲が一枚と温度計が差し込まれているというもの。
単純に考えて「この中にいた生息物はどこへ行ってしまったの?」
立方体の大理石が数多・・・これは重い!虫の姿はないけれど、息も絶え絶え(死んでいるかもしれない)の状態を思う。イカの甲は固くて大きいのでそのままでは食べられない、そして温度計は中の生息物の生死を測るものではないか。
作品に生息物は不在であるから、当然、生息物の存在を疑わない。しかし、捕獲のかごであれば生息物を第一に想起するのが自然だと思う。
止まり棒があるので安直に鳥かごだと思ったけれど、あまりに小さい。虫かごだとすると柵があまりに大きい。既製品である以上何かの目的につくられたもの、それにあたかも鳥が止まるような棒を付けたのだろうか。不思議なくらい目的のないオブジェである。
「何故くしゃみをしない?」
くしゃみをすると、「Sante!」と言われるらしい。サンテとは健康のこと、(健康を願う!)という側近の掛け声、日本で言う「誰かの噂」みたいな反応らしい。
「何故、(生息物の健康=存在を疑わない?)」と、言っているのではないか。
「この状態の《本質》を何故想起しないの?」と。
形あるものだけを信頼する傾向への皮肉である。
(写真は『デュシャン』新潮美術文庫より)
向ふとこっちの岸に星のかたちとつるはしを書いた紙がたってゐました。
「あれ何の旗だろうね。」ジョバンニがやっとものを云ひました。
☆講(はなし)の眼(かなめ)は照(あまねく光が当たる=平等)が緒(物語の初め/いとぐち)の記である。
化(形、性質を変えて別のものになる)の記を運(めぐらせている)。
結局のところ、アマーリアは、その範囲でしかぼくの関心を惹かないのです。ある役人がアマーリアにそんな言語道断な仕打ちをしたのであれば、ぼくなら、とても黙ってはいられないだろう。それも、アマーリアの個人的な苦しみとしてよりは、むしろ公的な事件としておおいに問題にしたことだろう。
☆先祖の役人が、そのように不正に叫び、あなたの話が始まるのであれば予言者の創造ではないか。アマーリアの個人的な悩みとしてよりも、公的な事件のように見える。