とにかくよく成るゴーヤ、三十本、いえ、もう数え切れないほど・・・。少しばかり人に差し上げても残るゴーヤに今は恐々。
ゴーヤチャンプルー、ゴーヤの佃煮、ゴーヤで作る「きゅうりのキューちゃん」、ゴーヤと牛乳と蜂蜜で作るドリンク・・・さすがに。
なんでこんなにゴーヤに固執するかというと、3年ほど前、ゴーヤづけの日々を過ごしたのちの秋に測った体重が3キロも減っていたから。
でも、それからあとは、増えることがあっても減ることはなく、期待薄す。
ダイエット経験のない太ったわたし、モリモリ食べて痩せられるならと勘違いしたのかもしれない。
そんなわけで、まだまだ実が付きそうなゴーヤを恨めしく眺めている。
『彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも』
花嫁の部分とされる上半分、煙のような形は「銀河」とよばれ、中をくり抜いている四角の部分は「換気弁」とよばれている。
銀河という膨大かつ広大な領域に通念としてのありふれた換気弁が大きく場所を占めるというのはあり得ないし、ここでもすでに空間を破壊する思考作為が働いている。
「 デュシャンはこれは四次元の物体の三次元への投影図と語っている」
四次元は三次元に時間を加えたものであるが、四次元空間を想像することはできるが四次元空間に移動することはできない。できないものを投影するとこうなるという。誰も見たことがないのだから、選択は自由かもしれない。
デュシャンの投影図、それは三次元の解体とも思える。偶然あるいは必然に見えるものの奇妙な接合には合理性がない。
重力の無視はこの作品において著しい。一見脈絡がありそうな仕掛けは部分を追っていくと矛盾(不合理)が見えてくるし、このような形で留まることはない。
「独身者たち」とよばれている下半分の部分、「九つの雄の鋳型は、左から騎兵、憲兵、召使い、デパートの配達人、ドア・マン、僧侶、墓堀り人、駅長、警官と名付けられている」という。
名称は宙に浮き、中に在るべき人も宙に消えている。実態のないそれらしきものという抽象的な配慮はリアルに見えるだけに鑑賞者を惑わして止まない。
あたかも機能するような仕掛けは宙に浮いていて、現実には複製を拒否するものである。チョコレート粉砕機があるというのも、すべてを粉砕に帰すという洒落にさえ見えてくるのである。
思考に思考を重ねた熟慮の果ての《無/非存在》への挑戦は果てしなく続く無為との道づれではなかったか。
(写真は『デュシャン』新潮美術文庫より)
「あれは何の火だらう。あんな赤く光る火は何を燃やせばできるんだろう。」ジョバンニが云ひました。
☆化(形、性質を変えて別のものになる)果(結末)の釈(意味を解き明かす)の講(はなし)である。
化(教え導く)念(思い)を運(めぐらせている。
で、その助けをだれから求めているのでしょう。ほんとうは、だれでもない、フリーダから求めているのではありませんか」
「わたしは、フリーダのことでそんなえげつない悪口をほんとうに言いましたかしら」と、オルガは言った。
☆で、その助けはだれに? しかし、本当はだれでもないフリーダ(平和)からではありませんか。わたしは本当にフリーダ(平和)をそんなに憎みましたかしら」と、オルガは言った。