続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

デュシャン『花嫁』他。

2016-08-10 07:03:14 | 美術ノート

 『花嫁』

 どこに花嫁はいるの?といった図である。左ページの『処女№1』『処女№2』にしても、絵図と命名が結びつかない。
 『処女から花嫁への移行』という作品があるが、それも具体的な意味は不明である。
 処女と花嫁の違いは何にあるのだろう、変わらないのではないか。(結婚前と結婚後では確かに身体的な変化がある)
 『処女から花嫁への移行』には精神的な変化があるかもしれないが、現象としての変化は希薄である。

 『花嫁』という作品から既存の花嫁を思い描くことはできない。描かれたものは何なのかさえ言い当てることは困難である。
 金属性は全くない、さりとて肉感的な要素も感じられないこの物は、紙もしくは木製の質感があるが、限定できる根拠がない。
 『処女から花嫁への移行』には、わずかに手縫いの痕跡が認められる。縫うということは破れることでもあり、繕った跡にも見える。
 全ては脈絡のない合体であり、一つの形を成しているようではあるけれど、バラバラに解体されるようでもある。

『花嫁』を描く場合、絢爛の美、羞恥と喜悦の上気、祝福のムード(空気感)が常道である。
 しかし、この機械的な造作からは、一種の流動性を感じるが、精神の起伏は全く感じることができない。

 処女あるいは花嫁という人生のもっとも初々しい香りを打ち消したこれらの作品を前にして得られる感想とはどういうものだろう。
 ノックアウトされたような拒絶感、抱いていた情念を否定されたような無常感によって立ちすくむばかりではないか。

 無機的な冷たいエネルギーは人間の持つ喜怒哀楽を想起させない。極めて冷静で物理的な身体機能は確かに作動しているように見える。
 精神を切り離した物理的状況の具象化なのだろうか。

  


(写真は『マルセルデュシャン』㈱美術出版社より)


『城』2402。

2016-08-10 06:26:55 | カフカ覚書

あんたが故意にそうしているとはおもいませんし、ましてや、腹ぐらい意図があるともおもいません。そうでなかったら、もうとっくにここを出ていってしまっているところです。故意にしていうことではない。いろんな事情があって、こころならずもそういうことになってしまったのでしょう。


☆あなたが悪い目的を持っているとは思いません。でなかったら、ずっと前に出て行ったに違いありませんから。故意にしたことではなく、事情があって惑わされたのでしょう。