美術館の入場券を頂いたので行こうという気持ちになっている、いるけれど、なかなか一歩が踏み出せない。
人から誘われても、こんな性格だから大抵は断ってしまう。こんなわたしが人を誘えるだろうか…否、誘えない。
誘い合わせることができれば、行くことができるに違いない。(なんて消極的な淋しい日常なんだろう)
もう、出かけるのも億劫(昔からだけど)、何か閉じこもったまま一生を終える、それでも構わないし、むしろそうしたいと思う。
「家にばかりいてストレスがたまらない?」
「全然!」とは応えられず、笑ってごまかしている。
「家に居てばかりで、何しているの?」
「・・・」
ただボォーッとしている。
『金属の縁に囲まれた、水車のある滑り台』
滑り台に水車は不要であるし、水車は水の流れがないと機能しない。川の上に滑り台があって滑り落ちていく先は…。(まさか遊園地を想定しているわけではないと思う)
水車のある滑り台が金属の縁に囲まれる必要もない。
然るべき関係性が皆無である。関係性どころか存在そのものの意味を全く探し出せない、つまり意味を排除しすることに腐心しているからである。
半円形という曲線も回帰の否定、振り落とされるような静かなる暴力性が潜んでいる。平面を一つの偽空間と考えても造作の立地面の把握が難しく、宙に浮遊している感はぬぐえない。
曖昧さの回避ではなく、曖昧さの主張である。
こんな不思議な謎のような作品を提示したデュシャンの意図は、反逆という一言では言い表せないが、存在を静かに否定する反旗であり、無への凝視の眼差しであったのではないかと思う。
(写真は『デュシャン』新潮美術文庫より)
楊の木や何かかもまっ黒にすかし出され、見えない天の川の波もときどきちらちら針のやうに赤く光りました。
☆要(かなめ)を黙し、化(形、性質を変え別のものになること)を告げる。
推しはかると現れ展(ひろがっていく)。
千(たくさん)の破(形を崩す)と、真(本当)の釈の講(はなし)になる。
まさか、たとえばつい一週間まえラーゼマンとブルーンスヴィックにいやおうなしに家からつまみだされた測量氏としてのぼくに期待しているわけではないでしょう。
☆しかし、例えば一週間前、ラーゼマンとブルーンスヴィックに、否応なしに一族からつまみ出された土地を亡くしたことに気づいた人としてのわたしに、期待しているわけではないでしょう。