『雌のイチジクの葉』他
写真の三つの作品、意味不明である。言葉と物との関係が結びつかないのである。
『貞淑さの楔』 楔とは、つなぎ目が離れないように二つの物のあいだにまたがって打ち込むものである。たしかに異種の物が付着しているが、Vの字型でもないし、まして貞淑さに関連があるとは思えない不明なものである。
『雌のイチジクの葉』 イチジクの葉をまるで想起できない。まして雌であることの差異などあったろうか。
『Objet-dard』 骨董品・・・何の? 逆に問いたいものである。
この三作品の制作年はそれぞれ異なり、たまたま同じページン掲載されているに過ぎないかもしれないが、趣旨不明という共通点がある。
「この物は一体何なのだろう」
「この名付けられた物の命名と物体の隔たり」
データーの集積を以ってしても、正確な判断が出来かねる。データーの集積を取り払い、新しいデーター(命名)として受容できるかと言えば、それも難しい。
なぜなら、「言葉と物」「言葉と状態」には、自然の法則にしたがう約束が長い歴史を経て固い信頼関係として築かれているからである。
これらの作品は、観念を揺るがす力を内包しているが、破壊力までの威力はない。しかし、無意味なものの提示には、意味を捜そうとさせる不敵な笑いが潜んでいる。
(写真は『マルセルデュシャン』㈱美術出版社より)
「さあ、わからないねえ、地図にもないんだもの。鉄の舟がおいてあるねえ。」
「あゝ。」
「橋をかけるとこぢゃないんでせうか。」女の子が云ひました。
☆弐(ふたつ)の途(すじみち)を徹(つらぬいている)。
周(あまねく)教(神仏のおしえ)の果(結末)を叙べる詞(ことば)を運(めぐらせている)。
あんたの話を聞いて、最初はそうおもいました。だが、話を聞いているうちに、どうしてそうんったのか自分ではよくは納得できないのだけど、話しているのがあんんただから十分信用してよいのですが、とにかく、だんだん事態が変わってきました。
☆あんたの話で思いを改めましたが、なるほど完全に理解できたわけではありません。話は十分に評価できますが、この事柄はだんだんなおざりになってきました。