いつ死ぬか未定であるけれど、その日の準備はしなくては…そう思いつつなかなか果たせないでいる。
残されたものが困惑する一番はお金のありどころ、搾りかすのような少ない金額にしろ明らかにならないまでは葬儀さえままならない。
なんとか自分の一生を自分でクリアーする。(このくらいはいいかな)(これはダメでしょう)日々反問を繰り返しながら、倹しく暮らしている。
荷物の整理、片付け。(こんなものが出てきた)と、大笑いされるくらいはいいとして、処分すべきは今のうちだと頭では分かっていても実行できずに日々に流されている。
延命治療は拒否してください。死ぬ自由がないのは不自由かもしれない。
Xデイは必至。
「わたしが死んだら」と夫に言えば「お前が先に死ぬわけはないだろう」と根拠のないことをいう。
でも、まあ《なるようになる》心配しても始まらないかもしれない。
『泉』
泉とは自然に水が湧き出るところを言う。この作品においての『泉』は小便器の提示である。
便器は、人間の自然排出物を引き入れる場(物)であリ、本来の泉とは真逆の働きをする知の構築物である。
この物は『泉』では無いという全否定が先に立つ。
然るべき場所に置いてこそ機能するこの物の無意味な提示は鑑賞者の精神を困惑させ、不快感や憤りを感じさせるかもしれない。泉という生きる糧でもある水の情景は美的であるが、排泄を美しいと感じることはない。人には見せることのない遮蔽された場、隠すべき約束は自然な必要条件である。
それを敢えて人前に提示する、醜悪のイメージ。
しかし、便器自体は汚いものではなく付きまとうイメージを払拭しさえすれば、単なる陶器であり、それは美しいとさえ表現出来得る。
生きることの必須条件である排泄作用。便器の提示は、それを美化しようとするわけではなく、思い込み(観念)の打破、あるいは深い溝として潜在する生理の隠ぺいをさらけ出す想念への問いかけである。
美・醜の並置を一つの物体で内包させ、その意味を告発している。無に帰していると換言できるかもしれない。
(写真は『デュシャン』新潮美術文庫より)
「するとあすこにいま笛を吹いて居るんだらうか。」
「いま海へ行ってらあ。」
「さうさう。ぼく知ってらあ、ぼくおはなししよう。」
☆的(ねらい)を推しはかる。
異なるものを、改(前のものを新たにやりかえる)考えは、介(なかだち)の智(物事を考える能力)である。
ぼくがお宅に来たとき、あんたがたは挨拶をなさる。それは、だれに挨拶をしているのですか。あんたは、ご家族の打明け話をなさるが、だれにむかってしているのですか。
☆わたしが、あなたたちの前に来たとき、あなた方は歓迎してくださる。あなたの一族の物語は、だれに向かって話しているのですか。