今朝は涼しくて、夏は開けっ放しの寝室の戸が閉まっていた。
(閉まっているのに汗をかかない…って、涼しいってこと?)なんてぶつぶつ言いながら起床。
二日ほど前の友人たちとのおしゃべりで「うちもとうとうエアコンをつけたわ」と言ったら、
「あらっ、点けていなかったの、うちなんかずっと点けているわ」と驚かれてしまった。
暑い暑いと汗をかいているうちに、さっと吹き込んでくる涼風に気づく至福。(これが自然というもんじゃないの)と思っているけど、世間はそうではないらしく、メディアでも「無理をしないで冷房にしてください」と呼び掛けている。
暑くても寒くても《我慢、我慢》が自然に身についている貧乏性。
大工さんに「エアコンの穴はどのあたりにしますか?」と聞かれ、「そんな贅沢なもの一生使いませんから」と答えたのは今から40年前・・・。
わたしは無理をしているのかな?
無理をしてはいけないお年頃、頭を切り替えなくては!
それにしても涼しい朝は、うれしい!の一言。
『夢』
裸婦像であり、どちらの絵も婦人は眼をつむっている。髪をきちんと整えていることから現代である想定される。
夢は神のお告げとされる考えがあるが、岩(わたしは岩である→神)の上に手を置いているのは、それを否定しているとも思われる。
カタログに載った左右の作品は、同じく『夢』と題されている。うつむき加減の顔を見ると、将来的な希望や願望ではないように思われる。
背景に関していえば、一方は海、他方は山河であり、共通しているのは双方とも水平線および地平線が明確に見えないことである。
神のお告げでもなく、願望としての夢でもないこの『夢』という作品。
室内の壁に映った影と思われるものは、現実の物理現象である平面性を持たず、肉感的なボリュームを有している。
夢とは無意識の経験である。現実を離れた無意識という私的空間においても等身大の自分自身を夢想している。
どこまで掘り下げても、女は女の領分を固持し続けている。《潜在意識の底の底まで女であり続けている》というマグリットの女性に対する見解なのだろうか。(確かに否定はできない)
パイプを描いて『パイプではない』といったマグリット、女を描いて『女である』ことを夢という異次元で逆説的に証明したのかもしれない。
(写真は国立新美術館『マグリット』展・図録より)
「空の工兵大隊だ。どうだ、鱒やなんかがまるでこんなになってはねあげられたねえ。僕こんな愉快な旅はしたことない。いゝねえ。」
「あの鱒なら近くで見たらこれくあいあるねえ、たくさんさかな居るんだな、この水の中に。」
「小さなお魚もゐるんでせうか。」女の子が談につり込まれて云ひました。
☆句(ことば)の構(しくみ)で、平(平等)の態(ありさま)を諦(あきらかにして)ます。
僕(わたくし)は諭(教え導く)を解(わかるように)慮(あれこれ思いめぐらせて)います。
混ぜて現れる意を推しはかる。
注(書き記す)照(あまねく光が当たる=平等)の語(ことば)を団(まるくおさめる)を己(わたくし)は運(めぐらせている)。
アマーリアは、その動機を自分の胸ひとつにしまいこんでいて、だれも、それを引きだすわけにはいかないでしょう。これに反して、フリーダは、なにも特別なことはしなかった。ただ自分のこころのとおりにしたがっただけです。
☆アマーリアはその動機を胸に秘めているので、彼女から聞き出すことのできる者は一人もいないでしょう。フリーダは全く奇妙なことはありません。