毎朝、ラジオ体操に出かけている。8時45分はわたしにとっては好都合。8時まではブログ、その後朝食、そして8時40分に玄関を出る。
運動嫌い、家の中で座りっきり(これじゃ良くないよ)の生活。
ふと見かけたラジオ体操のお知らせ(これしかない!)
ラジオ体操の仲間は、すでにお気楽な年代ばかり。子供の昔に帰って少年少女の気分で挨拶を交わしている。
それでもって、めでたく80個の印をクリアー、袋の中身は・・・。
「中には塩飴が入っています」
開けてみたら、ガーゼハンカチ。それでもどこかに飴が、と振ってみたけど・・・。品物が違ったのかも・・・飴もよかったな。お世話になって記念の品まで頂けるなんてホント嬉しいyo ~♪
『彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも』
デュシャンは考えたと思う。いかに考え(観念)を全否定できるかと。
最大の目標は《空無あるいは空漠に帰すこと》ではなかったか。
言葉や描かれたもの(表現あるいは提示)には、人の想念が重なる。人の眼差しは見出すための器官であり、蓄積されたデータに比較照合を試み、イメージの一致を図る。
その上での感想が、製作者の意図に重なることが順当であるが、デュシャンの場合はそれを阻んでいる。
意味を見出すことが不可能な作為を沈思黙考し、真意を語ることを自身に固く禁じている。(そうとしか思えない)
『彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも』この題名と作品には共通項がない。【彼女、独身者、裸、花嫁】はすべて、人であり、肉感を持った有機物であるが、作品には、その片鱗さえうかがい見ることはできない。もちろん意図したからであって厳しく一線が引かれている。
鑑賞者は作者の意図に副おうと努力するが、強引に引き離されてしまう。言葉と提示されたイメージが結びつかないからである。
感動はなく、矛盾と混沌、困惑と軋轢、鑑賞者の脳裏は激しく回転する。肯定でも否定ですらもない空無のスパイラルに落ちていく。
解ろうとすると突き放され、離れると離れがたい余韻が残る。すべて解っているはずの世界観という自負が崩壊していく感覚である。
デュシャンの背中・・・前に回ってデュシャンを覗き込むことはタブーかもしれない。
(写真は『デュシャン』新潮美術文庫より)
ルビーよりも赤くすきとほりリチウムよりもうつくしく酔ったやうになってその火は燃えてゐるのでした。
赤くはシャク都民で、釈。
酔ったはスイと読んで、推。
火はカと読んで、化。
燃えてはネンと読んで、念。
☆釈(意味を解き明かす)を推しはかり、化(教え導く)念(思い)である。
しかし、いろいろな点から考えてみると、無邪気なフリーダのほうが高慢なアマーリアよりも多くのことをなしとげたとおもえるのですがね。というのは、ぼくの印象では、あんたが助けを求めているのは、アマーリアのためだからです。
☆しかし、罪のないフリーダ(平和)のほうが、尊大なアマーリアより多くを成し遂げたように見える。わたしには先祖の苦境を助けるためにアマーリア(月)を求めたように思います。