「いつのまにか骨折」って、そうなの?
それでなくてもあちこち《いつのまにか劣化》下降カーブが止まらない。
何となく足裏が痛い、何かの衝撃で痛めたらしいけれど、原因を思い出せない。まさに「いつのまにか骨折」状態。もう二週間近くになるのに一向に症状は改善されない。
「なんとなく骨折は無いよ、骨折っていうのが激痛が走るもんだ」と、夫。
「じゃぁ、何なの?」(何なんだろう)
一日中悩まされているわけでなく、立ち上がったときに鈍痛を感じ、歩くときもその部分を避けるので少々疲れる。何でもないといえば何でもないけど、やっぱり痛いかも…という具合。
弱気になって息子に電話、
「どう、元気にやっている?」
「うん、」と弾む声。(良かった)
「お母さんも元気だから」と。
少しは心配して欲しいけど、(まぁいいか)。
転倒に気を付けていても「いつのまにか骨折」に見舞われることもある高齢者のわたし、あ~ぁ、情けない!
『階段を降りる裸体』
一般に裸婦像というものはあるが、階段を降りるという、時空を描き留めた作品を知らない。たしかに連続(下降)の分解図のようである。しかし、いかなる方法をもってしても二次元の画面に立体的な時空を再現することはできず、平面のなかでの静止であるしかない。
それを敢えて『階段を降りる裸体』とした理由は何だろう。
階段を降りるときは通常前傾姿勢である。しかし、ここでは頭部(顔)は下向きの態であるが、胸の辺りが若干反り返っている。(この不都合は足元が見えず危険である)
欲情をそそるような裸体としての肉感がなく、機械的であり、木材を思わせるような質感である。
描かれた裸体らしき対象は接続部分が曖昧であり形成は倒壊の危惧を孕んでいる。そして何よりも情感の排除は鑑賞者を納得させない。しかも階段を降りるという必然性の欠如は見る者を困惑させるだけである。
『題名』と『内実』の不協和音は、意味を霧消させている。そのように意図した作品に鑑賞者はため息をつき、明らかに意味の消失を力強く主張した作品に呆然とせざるを得ない。画面の大きさ、一見緻密に見える描写のエネルギーに「まさか」の想いを打ち消し、どうかすれば、意味を見出す情熱に駆られかねない作品である。
デュシャンの哲学的策謀の始まりかもしれない。
(写真は『デュシャン』(株)東京美術出版より)
川の向ふ岸が俄かに赤くなりました。
☆千(たくさん)の講(はなし)の眼(かなめ)がある。
我(自分の考え)は、析(分けることで事柄を明らかにする)。
また、なんらかの援助が得られるのではないかと期待をしている。そんな可能性は、ごくちいさなもので、まず実現しそうにおもえないが、とにかくそれをだれに期待しているのですか。
☆誰かにその可能性を期待している。ただそんなことはほんのわずかなことで、在りそうにもない可能性を誰が助けてくれるんですか。