〔芳賀久雄先生の授業〕
京急浦賀駅から観音崎行きのバスで新町下車、東叶神社で集合。20人というメンバーには一人も知り合いがいなかったけど、同じような趣旨で集まっているのですぐ意気投合、周知の仲。和気あいあいのおしゃべり・・・。
東叶神社の由来などの説明を聴講後、船着き場へ。(東から西へ3分/200円)
通りがかりの人の「この辺りには竜馬も勝海舟も来たんですよ」と、一下り説明を受けたりの楽しい道行き。
西岸からも、明神山には白鷲、青鷺の姿が点々と見える。…羽を広げるとかなりの大きさ。56万人の帰還者を迎え入れた浦賀の船着き場、折角の帰還もコレラで多くの命を落としたという憤りと虚しさを感じざるを得ない悲話。
西叶神社では神主さんのお話しを聴講。
「向日葵はもとより、シロサギやアオサギも夏の季語です」
いろいろ夏の季語を教えていただいたけど、なかなか…難しい。
芳賀先生、ありがとうございました。
『記念日』
室内に巨岩石が鎮座している、窓外には海(水平線)が見える。
室内いっぱいの巨岩石をどこから入れたのだろう。最初から在ったと考えても床上にあげる作業をどうしたのか・・・。要するに現実的ではない景色のあり様である。
主なる神はとこしえの岩だからである(イザヤ書/第26章より)
わたしは初めであり、わたしは終わりである。わたしのほかに神はない(略)
わたしのほかに神があるか。わたしのほかに岩はない。(イザヤ書/第44章より)
人が信仰を持ち、岩(神)を受け入れた歴史上の記念日なのだろうか。
身動きできない大いなる圧迫は、驚異であり脅威でもある。
窓外に見える水平線は動かし難い自然の理として、物言わず静かにこの光景の背後に絶対的な真理を光らせている。
絵の隅に描かれた水平線は、人為的な家屋(精神)に動かし難く居を占める岩を包み込んでいるのではないか。
近視眼的相貌は、背後の宇宙的真理に見守られている小さな事件に過ぎないのかもしれない。
(写真は国立新美術館『マグリット』展・図録より)
ジョバンニはもうはねあがりたいくらゐ気持ちが軽くなって云ひました。
気持はキ・ジと読んで、記、字。
軽くはケイと読んで、計。
云ひましたはウンと読んで、運。
☆記す字には計(もくろみ、図りごと)を運(めぐらせている)。
アマーリアの行動は、たしかに変っています。けれども、あんたからその話を聞かされれば聞かされるほど、その行動がりっぱであったのか、それとも、つまらなかったのか、賢明であったのか、それとも、ばかげていたのか、勇敢であったのか、それとも、臆病であったのかが、ますます決められなくなってきます。
☆アマーリアの行動は確かに奇妙ですが、その行動の物語は立派なのか、平凡なのか、利口なのか、愚かなのか、英雄なのか、卑怯なのか、ますます決められなくなっています。