デュシャンに「なぜくしゃみをしない?」という作品がある。
わたしに関していえば「なぜ生きているの?」という不穏な問いが心の奥底に聞こえる。
(ああ、そうか…また今日も生きないわけにはいかないのか)などと不遜にも考えてしまう。
かったるいし、だる重い。眼精疲労、あちこち気になる痛み(あるような、ないような)…辛いと思えば辛いし、大したことでないと思えばそれっきりのこと。
96歳の高齢者が元気よく歩いているのを見ると、羨望を感じる。(わたしはあそこまで頑張れないわ)頑張っている機能があるとすれば、食欲だけ。(夏痩せって言葉、わたしの辞書にはない)
白露や 死んでいく日も 帯しめて(三橋鷹女)
頑張るしかないから、何とか頑張っている、頑張りたいと思っている!
『ローズ・セラヴィよ、なぜくしゃみをしない?』
11.4×22.0×16.0㎝の鳥籠、鳥籠と言っているから(鳥籠なのか)と思うが、いかにも小さい。この中で鳥は飛べない。第一、出入口が持ち上がらないし、柵も少々幅広ではないか。
昔見た(ネズミ捕り)のような捕獲が目的の籠を思わせる大きさである。
イカの甲羅が見えるが、餌と言うにはそのまますぎて、愛玩の小鳥の餌とは思えない。イカの甲羅は餌であるらしいが、死骸でもある。
全てが奇妙に意味を失っている。
角砂糖に模した大理石が詰め込まれ、中の生物は圧死せざるを得ない状況であるが、その物は不在であるらしい。
「なぜくしゃみをしない?」
くしゃみとは制御不能な生理現象である。「なぜ?」と言われても窮するばかり・・・。
この命名に対する内容の不在、言葉と具体的な形態(状態)が一致していないのである。
イカの甲羅、立方体に刻まれた小さな大理石、温度計、水飲みの器、疑惑の鳥籠…具体的な内容に共通性がなく、すべてが任意の羅列であり、意味を霧消させている。
雑多な物の共存が反って目的を見失っているのである。一つの状況という集約的な目的が解体され意味のないことを、むしろ証明している。
「なぜくしゃみをしない?」は、「なぜ反論しない?」という挑戦状にも思える。
(写真は『デュシャン』新潮美術文庫より)
「あゝあれ工兵の旗だねえ。架橋演習をしてるんだ。けれど、兵隊のかたちが見えないねえ。」
☆講(はなし)を掩(見えないようにする)記である。
果(結末)の教(神仏のおしえ)を掩(隠している)。
終(生命のおわり)の評(善悪可否価値などを公平にさばく)他意が現れる。
それで、いまでは、この問題は、あっさり〈おとといおいで!〉と言うことにしたいですね。ぼくは、消防団員じゃないし、ソルティーニとなんの関係もありませんよ。しかし、フリーダのことになると、だまっているわけにはいきません。
☆火のような輝きを制止できないし、ソルティーニ(太陽)の世話はできません。でも、フリーダ(平和)のことになると心痛があります。