続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

ラジオ体操のご褒美。

2016-08-27 07:36:52 | 日常

 自然に足が向くラジオ体操、だらしない日常の救世主である。
 
 参加者は大方高齢者ばかりだから、欠席が続くと(どうしたかしら)と心配してしまう。
「実は腰を痛めましてね」という男性。以前に、わたしと出席の印数が同じだと見せてくれたけど、
「もう、新しいカードになったんでしょう」と残念そう。

 ある日突然緊急事態に陥ることは想定内、だれも同じ杞憂を抱いて毎日を過ごしている。
 わたしより一回り上の婦人、近頃は欠席続き。「網膜剥離で手術をして成功したんですけれど、再び徴候がありまして医者通いです」と漏らしていた。

 名前を知らない間柄…「お元気ですか」姿が見えない度に心中問いかけている。

 昨日は全員に熱中症対策の飴を頂いたんですよ、あなたにわたしの分をお届けしたいと思いました。
 早く良くなって会場でお会いしたいです。


デュシャン『ローズ・セラヴィよ、何故くしゃみをしない?』④

2016-08-27 07:03:11 | 美術ノート

 『ローズ・セラヴィよ、何故くしゃみをしない?』

 鳥かご、というから鳥かごだと思うけれど、こんなに小さい鳥かごは見たことがない。小さな小鳥、この中である程度自由に飛ぶことのできる小鳥を想起すると、小さい故にこの柵から抜け出てしまうのではないか。
 そんな小さい小鳥がこんなにどでかいイカの甲をどう啄むというのか。
 それに152個の角砂糖型大理石が無意味に詰まっている光景は唖然とするしかない。小鳥というのは数十グラムの軽さであるのに対し、大理石は重い。
 体温計というの動物に使用するものであるけれど、小鳥の体温を測るなど聞いたことがないし、まして大理石などは人が察知すべき温度であって計測の日常化はない。

 通常の人が抱いている観念/常識をすべて覆す意外性、というか無為な反逆の凝縮を提示し、作品と名付ける。不遜とも思える行為である。
 しかし、それは反骨の精神とは異質のものである。真っ向から《無/非存在》を見えるような形に置換した結果としての従順ではないか。

『ローズ・セラヴィよ』と自身に問いかけている大いなる自問。『なぜくしゃみをしない?』という制御不能な器官の働きは、「自然に逆らうことなかれ」という潜在意識への問いであり、真偽の間を彷徨する否定の上の肯定に揺さぶりをかけている疑問符なのだと思う。


(写真は『DUCHAMP』(ジャニス・ミンク TASCHENより)


『城』2419。

2016-08-27 06:20:09 | カフカ覚書

自分では、たしかに悪口を言うつもりはなかったし、悪口を言ったともおもっていないのですけれど、あるいは悪口だったかもしれません。わたしたちの置かれている立場と言ったら、それこそ世間のすべての人たちから村八分にされているようなものなんですもの。それで、泣き言を口にしはじめると、自分でも抑えがきかなくなり、見さかいもなくなってしまうのです。


☆自分では確かにそう望まなかったし、そうしようとも思ってもいませんが、しかし、そうだったのかもしれません。わたしたちの状態は世界中と不和になっているようなものです。わたしたちは絶えず訴え続けていますが、どこでもそれを知りません。