『影』
樹木のシルエット、背後にボリュームをもったパイプ、大きさの概念からすると不調和があり、どちらかが巨大、どちらかが極小に描かれている。
二つの領域にはすでに差異があり、空間に亀裂があるということである。概念の崩壊と換言してもいいかもしれない。
樹木の下は地面という自然条件があるが、土砂や草木の皆無な水色でありあたかも水面を思わせる描きぶりである。
樹木に比して巨大に見えるパイプは、この形で留まることは難しいと思われ、浮いているような感じさえする。
空の上方は黒いのに、二つの物体には線条の影が差している。
あらゆる条件が複合的に(巧と思えるほどに)条理を外している。
『影』、光の直進を遮る物に因ってできる面状の暗い領域であり、物と影の関係は切り離せない。角度にもよるが、その物の形態に模したものである。
樹木のほうはシルエットであり、その物自体がすでに陰であるのにその影が描かれてる。
パイプには上方からの光の影が描かれ立体をなしているが、存在感の希薄さを免れないのは僅かに浮いているような微妙な立ち位置による。
これらの不条理をもって『影』としている。影、幻の実態。
わたしたちが通常見ている物(景色)への絶対的な信頼を覆す光景である。にもかかわらず、どこかでこの不条理を肯定しようとする潜在意識がありはしないか。
見えているが、見えない視覚の不思議。視覚は重ねられたデーター(観念)によって、不条理を訂正しようとする働きがあるのかもしれない。
『影』はその精神的暗部を衝いた作品である。
(写真は国立新美術館『マグリット』展・図録より)
「あたし前になんべんもお母さんから聴いたわ。ちゃんと小さな水晶のお宮で二つならんでゐるからきっとさうだわ。」
☆全て簿(ノート)に調べて章(文章)を推しはかり、照(あまねく光が当たる=平等)を究めるのは、字(文字)である。
いまでもまだなぶりものにされています。しかし、いわば嵩が大きくなったのです。これだけでも相当なものです。ぼくは、どれもたいしたことではないかもしれませんが、それえもすでに一家をかまえ、職をもち、れっきとした仕事をしています。
☆今ではどれくらい時間がかかるのでしょうか。前よりも長くなっています。それにもかかわらず、先祖の一族の立場は真に現場不在のように見えます。