『嵐の装い』
暗澹とした海、打ち上げられた難破船、それを見る擬人化を思わせる切れ込みのある薄い紙状のもの。
暗い光景であるが、背後というのか、手前からは光が差している。
この人為的に切れ込みの入った倒立物は、当然立っていられるような物でないのに、あたかも精神を宿した人のごとくに立っている。この切れ込みの跡というのは何だろう、対称なのは、折り畳んで切り込みを入れたということである。それを任意の形(人を想起させる)にざっくり切っている。
《過去の出来事を刻んだ魂》すでに自分自身を失っているが、消すことの叶わない執念が辛うじて、否、強い執着をもって立ち望んでいる光景かもしれない。
現世の嵐に叩かれた難破船が、こちら(冥府)にやってくる光景を出迎えている冥府の霊魂の装いかもしれない。あるいは、その難破船から冥府に上陸した新しい霊魂の新たな装いとも思える。全てが抜け落ちた後の魂の浄化は、並べて均等化されるように見える。
質の転換は、精神(魂)の浄化の仮想ではないか。
装いは儀礼である。現世から冥府に至る精神の礼服は、ことほど左様に現世の物とは異なると、マグリットは夢想したのかもしれない。
(写真は国立新美術館『マグリット』展・図録より)
「あれきっと双子のお星さまのお宮だよ。」男の子がいきなり窓の外をさして叫びました。
☆総(すべて)死の照(あまねく光が当たる=平等)を究(つきつめる)談(はなし)である。
詞(ことば)の双(二つ)の我意は教(神仏のおしえ)である。
もっとも、ぼくは、アマーリアをくそみそに言うつもりもフリーダをかばうつもりもありません。ただ、ぼくとフリーダがどういう関係にあるかということ、つまり、フリーダを攻撃するのは同時にぼく自身の存在を攻撃することになるのだということを、はっきり説明しておきたいだけです。
☆アマーリアを下げて言うつもりも守るつもりもありません。ただわたしとフリーダがどういう関係にあるかということ、つまりフリーダ(平和)を攻撃することは、同じくわたくし自身を攻撃することになるということが明らかになるだけです。