『弁証法礼讃』
家の窓を通して、室内に異なる家が現れる(入っている)。あり得ない矛盾である。
家の窓(室内)は、家より小さい。窓より小さい家があるはずがない。
窓<建屋(建屋の中に窓がある)
しかし、この建屋を精神の具現化であるとするならば、心の窓にもう一つ(本当)の精神が潜在していると考えることができる。
建屋の中に建屋(二階建て)は絶対に入ることはない。
中の建屋は単なるミニチュアであり、仮想のものである。
一方が巨大であるか、他方が極小である。
理不尽さは暴力的思考である。
等々、あらゆる想定が成り立つ場面を提示したこの作品の真意はどこにあるのだろう。
物理的な現実は、精神界には通用しないということではないか。
精神の自由、表現の奔放。
家(建屋)には動かし難い存在感がある。絶対的存在、しかし、そんなものは精神の自由、解放された時空においては問題の比ではない。
この作品の前での困惑、通念の硬直があるとしたら、自身に問い、自身の精神の扉を開ける鍵を見出すまで問い続けるべきだと、マグリットは示唆している。
(写真は国立新美術館『マグリット』展・図録より〕
「居るんでせう。大きなのが居るんだから小さいのもゐるんでせう。けれど遠くだからいま小さいの見えなかったねえ。」ジョバンニはもうすっかり機嫌が直って面白さうにわらって女の子に答へました。
☆巨きな他意を据える章(文章)を掩(隠し)、兼ねた記である。
現れる自記は綿(細く長く続く)と、吐く。
叙べる詞(ことば)に套(おおわれている)。
彼女の行動を悪意なしに見れば、だれの眼にもあきらかなことです。だれだって、それを確かめてみることができます。陰口や中傷の余地は、どこにもありません。
☆ただ結果を見て、いずれにしても、それに関して自発的に理解し、調べるならば、明らかです。噂の余地は少しもありません。