〔日下野由季先生の授業〕
「先週、浦賀へ吟行に行きましたね、今日はその披講です。吟行には兼題というものが出され、当季を踏まえて俳句を作ります。その後、披講という運びになりますが、その際、下の名前で名乗ります。その後講評ということになります。」
「先生、素人同士でサークルを作ってもいいものでしょうか?」
「はい一般にそのような会は沢山ありますが、出来れば一人以上の専門家が加わった方が上達が見込まれます。わたしも三か月に一度程度伺うサークルがあります。」
日下野先生は、どのような質問にも真摯に答えて下さり、的を得た品評で、こちらは感心しきり。
今回多く点の入った優秀作は《空蝉や 干鰯長者が 夢の跡》でしたが、欠席されていたのでお名前は分からずじまい。
ちなみにわたしの拙句は《億年に なほ新しき 夏の雲》
先生にちょびっと褒めていただき、恥ずかしい限り・・・。
日下野由季先生、ありがとうございました。
『金属の縁に囲まれた、水車のある滑り台』
確かに、そのようではある。
「大ガラス」では、この「滑り台」が「水車」の回転によってゆっくり前後に移動し、それが中央の「鋏」を開閉するという機構が想定されている。(新潮美術文庫・解説/中原佑介)
水車の軸の固定に不安があるし、滑り台が前後に移動する意味も不明である。想定は霧消に帰しているのではないか。
前向きな意図が感じられないのである、機能にも疑問があるが、生じる結果が漠としている。
第一、水車が金属の縁に囲まれる必要などないし、滑り台の付いた水車などというものは聞いたことがない。
意味の霧消、考え得るあらゆる手段を用いて、考えられない不明なものを制作する。《無の証明》
そんなものは無いのだということの提示、有を無に帰す粉砕のプランである。
「大ガラス」という作品があるが、ガラスに大をつけること自体すでに奇妙である。限りある物に、大(無限大)を被せることなどあり得ないからで、例えば材木に「大材木」などとは付けない。樹木の大きさに限りがあるからで、大空や大海とは質が異なるからである。
それを百も承知で、「大」を付けるところにデュシャンの狙いがある。
全てを無に帰していく、そのシステムを試行錯誤したデュシャンの意欲(あるいは徒労)は、《意味の粉砕》であり《宇宙原理への帰還》という大仕事だと感嘆する。
「はなしてごらん。双子のお星さまが何したっての。」
「ぼくも知ってらい。双子のお星さまが野原へ遊びにでてからすと喧嘩したんだらう。」
☆捜す詞(言葉)の章(文章)が化(教え導く)。
遷(たくさん)遭(出くわす)詞(ことば)の照(あまねく光が当たる=平等)也。
現れる幽(死者の世界)を見る果(結末)である。
それに、許婚者もいる。彼女は、ぼくがほかの用事で手をとられるときは、ぼくの職務上の仕事を肩がわりしてくれる。ぼくは、そのうちに彼女と結婚をし、村の一員になるでしょう。
☆先祖の血族は、ほかの仕事をしているときには職務を取り除いてくれる。先祖もやはり彼女を救世主とするでしょう。